記事を
ブックマークする
「1位指名は重複を恐れて変化球ばかり」「サンケイは11人中9人に入団拒否」1965年「第1回ドラフト会議」は球界をどう変えたのか「阪急はドラフトのおかげで…」《阪急1位長池徳士、大洋スカウトの証言》
それは札束と策謀が渦巻く弱肉強食の野球界に公平性と秩序をもたらす、天地がひっくり返るような革命的発案であった。
「ドラフトという制度が始まるとは聞いていましたが、契約金が下がる以外は何が変わるのかわからなかった。ただ、僕は最後まで南海に行くものだと思っていたんです」
1965年11月17日。第1回ドラフト会議で阪急に1位指名された法政大の長池徳士。のちに本塁打王、打点王各3回、“ミスターブレーブス”と讃えられる長池は、史上最初のドラフト1位であり、それに運命を狂わされた第1号の選手でもあった。

「当日は学校で指名を待つなんてしませんでした。朝から京都に『ツタンカーメン展』を観に行ってまして、帰りに駅の売店で夕刊を買ったら、“阪急1位長池”になってる。ひっくり返りました。僕は高校時代に南海の鶴岡一人監督に『大学で4年やってから来い』と言われて法政大学に入れてもらい、南海から5万円のお小遣いも毎月頂戴していた。当時の大卒初任給の2倍ほどの額ですよ。阪急は大学3年生の時に一度だけ西本幸雄監督とスカウトの藤井道夫さんが見に来ただけで、指名するなんて話は聞いたことがなかった」
ファラオの呪いか、野球の神様の祝福か。時代は大きく変わろうとしていた。
長嶋茂雄は1800万…札束が飛び交った「自由競争」の時代
ドラフト以前のプロ野球界は「自由競争」の時代。鶴岡親分のように、有力選手を中学・高校時代から囲い込み、入団の確約を取り付けた。時は高度経済成長期。契約金は物価と共に高騰し、'53年入団の阪神・吉田義男が五十万なら、'56年南海・穴吹義雄は七百万で『あなた買います』なんて映画にもなった。'58年巨人・長嶋茂雄は千八百万でも安かったと囁かれ、'61年に浪商を中退して壮絶な獲得合戦が繰り広げられた尾崎行雄は「軒下に忍び込んだ新聞記者がちゃぶ台に札束が置かれる音を聞いた」という逸話を残し東映が三千万で獲得。ドラフト前夜の'65年入団組は、上尾高の山崎裕之、慶應大の渡辺泰輔が各五千万と、新人獲得はいよいよ資金力と人気を備える球団の独壇場となり、パ・リーグ零細球団は次第に窮地に追い込まれていく。
全ての写真を見る -2枚-プラン紹介
「雑誌+年額プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています
「雑誌+年額プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています
この連載の記事を読む
記事


