無料公開中

記事を
ブックマークする

「(叡王初防衛も)棋力が伸びている実感はない」伊藤匠が語る“失冠の恐怖”と将棋の難しさ《王座戦では藤井聡太に挑戦》

2025/08/20

 最強棋士を倒した男が帰ってきた――。昨年6月、叡王戦五番勝負で藤井聡太竜王・名人にフルセットの末に勝利し、藤井の八冠全制覇を崩した伊藤匠叡王。今年は防衛戦が待ち構えており、斎藤慎太郎八段が挑んできたが、3勝2敗の激戦の末に初防衛を果たした。さらに9月に開幕する王座戦五番勝負の挑戦権も獲得し、藤井から2度目のタイトル奪取を目論んでいる。

 気温が上がるにつれて一気に存在感を増してきた伊藤だが、昨年の奪取以降はやや影が薄かった。まず、今年の防衛戦までの成績をどう見ているのだろう。

「パッとしない結果で、思うようにはいきませんでした。タイトル戦に1つくらい挑戦したかったですけど、すぐに敗退してしまった。具体的な理由はわからないです。タイトルを取って喜びすぎた? ハハハ。まあ、少し安心したところはないこともないのかな、と」と特徴的な低音ボイスで苦笑した。

 勝ち上がってくる挑戦者には勢いがある。防衛戦の開幕直前の心境は?

「開幕前に竜王ランキング戦1組の佐々木勇気八段戦があったんですけど、ボロ負け。内容的にも不安が残りました」

 それは的中した。開幕戦はいいところなく敗北。だが第2局で巻き返す。

「苦しい状況とは思っていましたが、結果はともかく内容が満足いかなかったのでそこをどうにかしたかった」と語る。白星が欲しくてたまらなかったはずだが、内容を重視していたのが伊藤らしい。同学年の藤井も内容とプロセスを大切にしているので、2人のタイトルホルダーのこの思考はよく似ている。

 第3局に勝利したが、第4局で敗れてフルセットになった。負けたら失冠という大一番前はどういう心境だったのか。

「勝ちたい気持ちはもちろんあったし、失冠の恐怖もあった。ただ負けても長い目で見れば一局なのかなと思っていました」と明かす。伊藤と話していると、自分を冷徹なまでに客観視しており、ある種の諦念を強く感じる瞬間がある。老成とも言っていい。まだ22歳だが、これが幼少から勝負にまみれた男の感性なのだ。

 最終戦は過酷な道のりだった。「中盤で飛車を切った手で暴発してしまった。勝負に持ち込む順がなかなか見えなかった」と苦し気に述懐する。それでも終盤で競り勝ち、初防衛を果たした。

「シリーズは全体的に押されていたが、時間がない終盤戦で決め手を与えずに指すことができた」と勝因を語る。

伊藤「防衛しても一人前の感覚はありません」

 将棋界には「防衛して一人前」という格言がある。奪取は勢いでできるが、失うものがある防衛は真の実力がないと成し遂げられないという意味だ。この格言について伊藤に聞くと苦笑しながら、「防衛しても一人前の感覚はありません。まだまだ課題がありますし」と語った。

 その課題は、藤井聡太と叡王戦以来の対戦となる王座戦にも当てはまるという。

「中盤でバランスを保つ技術が身についていない」と語る。現代将棋の相居飛車の定跡形はAI(人工知能)で細かく研究する。ただ分岐が多すぎて最後まではできない。準備した知識はどこかで途切れてしまうが、そこまでの組み立てをAIに頼っているため、自力で考え始める局面が異様に難しく間違えやすいのだ。

「局面の理解度を上げることが大事です。多少、形は違っても応用が利くので」

 そのためにはどうすればいいか尋ねると、「いや、わからないです。永遠の課題ですね」とシリアスな声で話した。

 伊藤に叡王戦で敗れた後、藤井はすべてのタイトルを防衛して相変わらずの強さを見せつけている。最近の藤井将棋にどんな印象を抱いているのだろうか。

「相変わらず強いです」。まずそう言ってから「指していないけど、状態が悪くないことはわかります。永瀬拓矢九段とのタイトル戦も読みの深さを感じます」。

 藤井と自身の棋力差は縮まっているのか。「いないと思います。自分の棋力が伸びている実感はないですから」と相変わらず自分に厳しいが、本音なのだろう。五番勝負はどこに勝機を見出すのか。

「もちろん勝つことができればいいですが、タイトル戦なのでどういう将棋を指せるかが大事です。中盤戦の辺りから均衡が取れた将棋を指したい。そういう将棋を指していくしかない」と伊藤は繰り返した。先ほど挙げていた課題に通じる話だ。なかなか明るい話にはならないが、そもそも将棋棋士から勝利宣言が出ることはない。楽観論ですら珍しい。自身と藤井をクールに見据えた発言ばかりだったが、取材の最後に聞いた王座戦への抱負で意外なトーンの言葉が聞けた。

「相手は藤井さんなので厳しい戦いになる。でも去年の叡王戦以来なので、自分がどれくらい指せるか楽しみです」

 伊藤から「楽しみ」という単語を聞いたのは、これが初めてだった気がする。

(原題:[Shogi]伊藤匠 「棋力が伸びている実感はない。それでも抱く“楽しみ”」)

伊藤匠Takumi Ito

2002年10月10日生、東京都出身。宮田利男八段門下。'20年四段、'23年七段。'24年に叡王戦を制し、初戴冠。'25年にはタイトル戦初防衛に成功し、八段に昇段した。得意戦法は相掛かりと角換わり。

photograph by JIJI PRESS

1

0

1

この連載の記事を読む

もっと見る
関連
記事