終盤の秒読みの中、前傾姿勢だった藤井聡太と伊藤匠が同時に体を起こした。だが藤井はすぐに首をガックリと下げ、失意の感情を露わにした。再び首をもたげて青白い顔を盤上に向けるが、目は虚ろだった。AIの期待勝率は伊藤必勝を示す。藤井は敵玉に王手で迫るも、応じる伊藤の手つきは確信に満ちている。藤井の指し手に力が入らなくなった。グラスの水を喉に流し込み、天井を見上げる。藤井は両手を腿の上に揃え、「負けました」と深々と頭を下げた。
終局直後は将棋のことを振り返っていました。
6月20日に行われた叡王戦第5局を制した伊藤は、シリーズ3勝2敗で初タイトルとなる叡王を奪取した。藤井のタイトル戦連覇記録は22でストップ。永遠に勝ち続けるのでは、という幻想を抱かせてきた無敵王者についに土がついた。昨年10月11日に王座戦五番勝負を制し、八冠全制覇を成し遂げた藤井が七冠に後退。254日ぶりに将棋界の歴史が動いたのである。
ニュースターとなった伊藤は、左手を口元に当てて盤上を静かに見つめていた。歓喜の様子はうかがえず、無理に押し殺しているわけでもなさそうだった。少しして藤井に視線をやった。「自分は藤井さんをずっと追いかけてきた」と尊敬の念を隠さなかった相手からとうとうタイトルを奪取した。だが、「終局直後は将棋のことを振り返っていました」と伊藤は述懐する。
「追いかけてきた」と言うが、2人は2002年生まれの同学年で、伊藤の方が3カ月ほど若い。小学3年生の時に大会で顔を合わせ、伊藤に負かされた藤井が号泣したという逸話はそれこそ各種メディアで何度も報じられている。伊藤はプロになって以来、「藤井を泣かせた男」という異名がついていたが、これからは「藤井にタイトル戦で初めて勝った男」と呼ばれることになる。
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