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「角田裕毅は日本の宝、僕にとっても宝物」校長・中嶋悟が語る鈴鹿スクール時代の“落第”、そして卒業式での涙「結果的に一番評価していたのは角田」《レジェンドのエール》

34歳にしてF1の舞台に立った。“雨のナカジマ”との異名も
9年前、もし、スクールの校長を務めていなければ、“F1ドライバー角田”は存在しなかったかもしれない。レーサー、そしてチーム監督として百戦錬磨の先駆者が47歳年下の後輩に、優しくも熱いエールを送った。(原題:[レジェンドの視点]中嶋悟「F1の世界を楽しんでほしい」)

 2016年1月、角田裕毅は16歳になる年に鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ(SRS-F、現ホンダ・レーシング・スクール・鈴鹿)の受講を決め、F1への第一歩を踏み出した。

 このとき、スクールの校長を務めていたのが、初の日本人F1レギュラードライバーとして活躍した中嶋悟である。

 中嶋は自分に続くF1ドライバーを日本で育て、将来的にはチャンピオンにしたいという願いを持ち、1995年にSRS-Fをホンダとともに立ち上げた。以降'18年まで校長として多くの有力ドライバーを育成している。

 その中嶋は、「スクール時代の角田についてほとんど記憶がない」と言い切る。

「スクールでスカラシップを得られるかどうかが人生の分かれ道になってしまいますから、受講生に私情を挟みたくなかったのです。僕が走行を見に行って評価する日があったんですが、車両は毎回入れ替えられているので、誰がどのクルマに乗っているかはわかりません。その状態で『今日は何番がおもしろかった、何番は良い感じだよ』という報告を出します。ただ、結果的に僕が一番評価していたのは角田だったみたいです。スクールカーはパワーが少なくて乗りにくいクルマなんですが、確かに、運転手の意思で積極的にクルマの方向を変える走りをしている生徒がいました」

 3月に開講したスクールでは、講習を重ねながら段階的に選抜が行われ、11月には当期受講生4名と前期受講生や講師を含めた10台によるスカラシップ(ホンダの育成プログラムに参加する権利を付与する奨学制度)選考会が開催された。このレースの結果でスカラシップの対象者が決められるのだが、角田はスタートに失敗。最後尾から追い上げたものの、総合結果は受講生中3位に終わった。当時のSRS-Fは多くの場合、首席卒業者と次席にスカラシップを授与しており、3位は“落第”である。

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photograph by KYODO

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