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「あいつらは(僕のことが)嫌だったと思います」谷繁元信が語った捕手の“信頼”とベイスターズ秘話「試合前、わざと投手がいるところで…」《インタビュー》

2025/06/07
プロ野球史上最多の3021試合に出場した扇の要は、審判やチームメイトと真っ直ぐ向き合い、揺るぎない信頼を獲得してきた。「正直者」が名捕手になるまでの道のりの物語。(原題:[優勝請負人の素顔]谷繁元信「信頼は正直さから」)

 ずんぐりむっくりで、寛容な。そんな従来の日本的捕手の枠には収まらなかった。

「山田太郎のキャッチャー像は好きじゃなかったんです」

 高校野球の名作漫画『ドカベン』の主人公で、空想とはいえ捕手の1つの理想像と表現してもいい人物に対して、谷繁元信は思いを巡らす素振りさえ見せなかった。

 谷繁は横浜に13年間、中日に14年間在籍し、プロ野球史上最多となる3021試合出場を達成した名捕手だ。谷繁が山田太郎に無関心な理由をこう語る。

「動けないでしょ? 動きが鈍いキャッチャーは嫌いなんですよ」

 谷繁が上の世代で理想としていたのは中日や巨人でプレーした中尾孝義だったという。いわゆるキャッチャー体型ではない、走って、守れる捕手だった。

 山田太郎と谷繁が相似形を成さないのは、動きだけではない。

 日本では捕手のことを「女房」にたとえがちだ。無口で包容力のある山田太郎は、古き良き日本の妻のようでもあった。

 谷繁に「谷繁さんは包容力があって、献身的でというタイプとは……」と問いかけようとすると「まったくないです」と自ら告白するかのように言った。

なぜ谷繁は父性的な捕手だったのか?

 あえて言えば谷繁は父性的な捕手だった。

 万年Bクラスだった横浜ベイスターズが化けたのは1997年のことだ。シーズン中盤から投打の歯車がかみ合い、ヤクルトと首位争いを演じる。最終的に2位に終わったが、翌'98年には38年振りにリーグ優勝を飾り、続く日本シリーズも制した。

 当時の横浜は、まるで雨後の筍のように若い投手が名乗りを上げた。三浦大輔、戸叶尚、川村丈夫、福盛和男らがそうだ。彼らの尻を叩いていたのがプロ入り10年目を迎えようとしていた谷繁だった。

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photograph by Nanae Suzuki

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