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「俺も演者側でいたかったな」プロレスラー吉江豊の“強さ”と“優しさ”とは何だったのか《早すぎる死から1年…棚橋弘至、妻・美奈さんらの言葉を辿る〉

食べることが何より大好きな、ピンクが似合うレスラーだった。
吉江豊が天国に旅立ってからはや1年が経つ。黄金期にあった1990年代後半の新日本プロレスで下積みを経験し、のちに最大体重160kgの巨体から繰り出すパワーファイトを武器に人気を博してきた。あの棚橋弘至が若手時代にリスペクトを傾けた実力者であり、温和な性格から慕う人たちは多かった。筆者もその一人。スポーツ新聞記者駆け出しの頃、巡業に行けば「何やってるんですか~?」とニヤニヤと近寄ってきてはたわいもない話をよくした。心を許せる人であった――。

妻の美奈は夫がいない現実を受け入れつつも、いつものように冗談を飛ばしながらひょっこりと現れそうな気もしていた。
「ちょっと長い巡業に行っているだけじゃないのかなって……たまにそんなふうに感じることがあるんです」
アニメ『アルプスの少女ハイジ』のアルムおんじにどこか雰囲気が似ているからと「おんちゃん」と呼ぶ最愛の夫を思い浮かべるように、彼女はポツリと言った。
会場にいた妻にも急ぎ「異変」が知らされた
2024年は吉江にとってデビュー30周年を迎えるメモリアルイヤーだった。白髪頭を染めてその年一発目の試合となる3月10日、全日本プロレス高崎大会に臨んだ。地元での試合とあって父と妻を伴い、実家のある前橋からGメッセ群馬へと向かった。妻は当日の様子をこう語ってくれた。
「試合が終わったら帰りに何を食べようかっていう話をしていたんです。元気でしたし、車の窓から店を眺めながら焼き肉にしようか、寿司にしようかと楽しそうでした」
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