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「人前では『イチロー』を演じていた」城島健司と黒田博樹が語る“背番号51”と見た風景「広島で僕の気持ちが弱くなりそうな時に…」《連続インタビュー》

2025/02/13
左から黒田博樹、城島健司
2006年からマリナーズで4年間を共に過ごした城島と、'12年途中から'14年までヤンキースで一緒に戦った黒田。クラブハウスで目の当たりにしたイチローの日常は彼らのその後の野球人生にも大きな影響を与えていた。(原題:[同僚が見た背中]城島健司/黒田博樹「隣にいたから分かること」)

 日本でだれよりも有名な背中を私が目の当たりにしたのは2006年だった。細身で肌の白さが印象的だった。野球場ではミントグリーンで縁取られた濃紺の「51」の鎧をまとう。さぞや広背筋が盛り上がり、筋骨隆々なのだろうと思い描いていたから意外だった。銭湯の湯けむりのなかで並んでも希代の大打者だとは気づかないだろう。

 '06年6月7日、ツインズとの乱打戦をサヨナラ勝ちで制したマリナーズのセーフコ・フィールドのクラブハウスは賑々しかった。打線の火付け役はやはりイチローだった。初回の初球先頭打者本塁打など4安打で日米通算2500安打に達した。

Naoya Sanuki
Naoya Sanuki

「僕の誕生日にイチローさんが2500本を打った。それでいいじゃないですか!」

 おどけながら報道陣に話したのは翌日に30歳を迎える城島健司だった。この年から米球界に挑んだ日本人初のメジャーリーガー捕手の熱弁を聞いていると隣のロッカーでイチローが着替えるのが見えた。本当に贅肉がないなあ……そう感心していると、城島の快活な声が耳に入ったのだろう。すかさずイチローの鋭い突っ込みが入った。

「誕生日、明日ちがうんか!」

 すると、城島がまぜっかえす。

「日本で生まれたから今日なんです!」

 当時、イチローはアメリカで5年200安打以上を継続し、城島は3学年上の先輩を師と仰いでいた。会話を日々、繰り返すなかで、その野球観、いや、道を極めようとする偉才の気迫に圧倒されていった。

城島「打つ方でも守る方でも僕の先生でした」

 あれから19年。城島はイチローとの師弟関係の始まりについて明かした。

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photograph by Nanae Suzuki

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