「やまびこ打線」が日本中に旋風を巻き起こした'82年夏。甲子園史上、最も注目を浴びた“豪打のラストバッター”は、誰にも明かせぬ過去を背負って、あの舞台に立っていた。あれから41年。一人の野球人が波瀾万丈の人生を語る。
明治神宮野球場と国立競技場が見渡せる東京都渋谷区神宮前。瀟洒なビルが建ち並ぶ一角にあるIT会社「VENE BASE(ベネベース)」は、昨年4月に設立されたばかりの会社だ。
オフィスに足を踏み入れると、真新しい空気が流れていた。代表取締役社長を務める山口博史は、柔和な笑みを浮かべて椅子に座っていた。ジーパンにパーカーといったラフな格好で、IT社長の風格を漂わせる一方、かつて「恐怖の9番打者」と呼ばれ、全国にその名を轟かせたスラッガーの面影は、58歳になる今もはっきりと残っていた。
取材に入ると、山口は事前に送っていた質問項目をiPadで確認しながら、時を'80年代へと戻し口を動かし始めた。そこで語られた物語は、何度も壁にぶつかりながらも、野球の縁に導かれていった男の波瀾万丈の「逆襲劇」だった――。
あの夏、甲子園は快音で揺れ動いた。1982年の全国高校野球選手権大会。草創期から守備力の高いチームが覇権を争う舞台で、池田(徳島)は高校野球の常識を覆した。公立校ながら猛打で全国の強豪校を次々と撃破し、頂点に上り詰めた「やまびこ打線」は、中軸にのちにプロでも活躍する畠山準(元南海、大洋など)や水野雄仁(元巨人)がいた。
しかし、他校を震え上がらせたのは、打順に関係なく強打が続いたこと。その象徴がラストバッターの山口だった。ショートで全6試合に出場し、2試合連続本塁打を放つなど、対戦相手を恐怖のどん底に陥れたのだ。
全ての写真を見る -3枚-
特製トートバッグ付き!
「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています
photograph by Katsuro Okazawa