#1056
巻頭特集

記事を
ブックマークする

[連続インタビュー]名将が球児だったころ――中井哲之「くそ生意気やったけど、性根が違った」

2022/08/05
中井哲之(Tetsuyuki Nakai)1962年7月6日、広島県生まれ。広陵高時代は内野手として活躍し、甲子園にも出場。大阪商業大を経て、1985年に広陵の教諭となり野球部コーチに。'90年4月、監督に就任。春夏通算20度甲子園に出場し優勝は春2回。教え子に野村祐輔、小林誠司ら。甲子園通算34勝
「高校生は、たったひとつのプレーで変わる」自らも春夏甲子園に出場し、母校の監督として30年以上指揮を執る彼には、高校時代の忘れ難いシーンがある。勝利より重要で、得難いものを知った当時の記憶を語る。

 中井哲之が広陵に入学する頃、1973年夏の甲子園を制した広島商業、1976年春のセンバツで初優勝を飾った崇徳高校の後塵を拝し、低迷期にあった。3年生となった1980年に春夏の甲子園に出られたのは、「もし甲子園に出られんかったら、ここでの生活は何じゃったんじゃろう」という強い思いがあったからだ。中井は、当時最も印象に残ったシーンとして意外なプレーを挙げた。

 あの頃、高校野球の強豪には、監督が課す猛練習と暴力的な指導、厳しすぎる上下関係が付きものだった。

「100人以上いた新入部員が最後には13人になりました。これ以上やめられたら困ると思って、みんなが嫌がることを率先してやりました」と中井は語る。

 寮の起床時間になると同級生を起こし、グラウンド整備に走る。練習が終わればまたグラウンド整備、道具の片づけ、洗濯などのさまざまな雑用……。

「広陵に限らず、野球部には理不尽なルールやしきたりがあって、従えない選手は部を去らなくちゃいけない、そんな時代。子どもながらに『おかしいのう』と思っていました。いい選手がたくさんやめていきましたよ。ただ、僕は逃げるとか、やめるとか考えたことがなかった。『中井はくそ生意気やったけど、性根が違った』と当時の先輩には今でもよう言われますよ(笑)」

 同期には、のちに広島東洋カープで活躍する原伸次がいた。

「エースの渡辺一博とキャッチャーで四番打者の原以外は、野球の実力はたいしたことがない。だけど、まじめで我慢強いヤツばかり。もちろん、僕もそうでしたよ。やり切ることの大切さを知るメンバーでした。

会員になると続きをお読みいただけます。
オリジナル動画も見放題、
会員サービスの詳細はこちら
特製トートバッグ付き!

「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています

photograph by Hiromi Ishii
前記事 次記事