かつてその風貌と走りは学生駅伝に大きな衝撃を与えた。それから20年が経ち、学生を束ねる立場で帰還する新春の舞台。本人や周囲の言葉から指導者としての悪戦苦闘の日々を振り返る。(初出:Number1042号[駿河台大学初出場]徳本一善「茶髪の異端児、箱根路に還る」)
一度目の監督要請は、にべもなく断った。二度目の監督要請にも、応じることはなかった。だが三度目、初めて駿河台大の山崎善久前理事長(故人)と対面すると、感じるものがあったという。
「ふと、この人となら一緒にやっても良いかなと思ったんですよね」
監督就任10年目にして駿河台大を初の箱根駅伝本戦に導いた徳本一善監督が遠い目をして振り返る。監督要請の声がかかるまで、あの舞台とはもう縁がないものだと思っていた。監督業にも興味はなく、むしろ頭の中にあったのは起業のことだった。
「僕、前からアパレルに興味があって、ゆくゆくはその世界で起業したいなって考えていたんです。実業団を辞めて陸上とは違う世界を見てみたいという思いもあったし、実際に現役の頃から色んなアパレル関連の社長さんと話をしていたので」
でも、と言い、こう続けた。
「周りには『箱根なんか出られるわけがない』とか、『お前の価値を下げる』とまで言われたけど、三度も誘ってくれるって相当じゃないですか。それで理事長に、『僕と心中してくれますか』って聞いたんです」
返ってきた言葉は「わかった」だった。徳本はその返事を聞き、腹を括る。当時はまだ予選会の30位前後をうろうろするチームだったが、5年で本選出場を勝ち取ると約束したのだ。
図らずもそれは、徳本が学生の頃に止めてしまった時計の針を再び動かすことを意味していた。記憶のかさぶたを剥がせば、痛みが甦ってくる。
バチッという、今まで聞いたことがない悲鳴を体の内側から聞いたのは2002年1月2日のことだった。
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photograph by Mutsumi Tabuchi