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「おまえは監督の息子だからや」明徳義塾・馬淵史郎監督の息子・馬淵烈が明かした苦悩の中学時代…“SSK”と揶揄され悔し涙も、父は「ふふふふふ」
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中村計Kei Nakamura
photograph byKei Nakamura
posted2026/09/23 17:01
現在、拓殖大野球部の監督を務める馬淵烈氏。少年時代は、父で明徳義塾野球部監督の史郎氏に「怒られた記憶がない」ほど優等生だったという
「野球は教えてくれましたね。あと、外食に行ったりとかいうのはたまにありました。でも家族で遊園地や動物園に行くとかいうのはなかったです。土日にいないのは普通でしたから。明徳におったら、他の親子がどうしてるかもわからないじゃないですか。だから不満を抱きようがないんですよ。でも、大阪に海遊館ってあるでしょ? あそこ行ったの、覚えてるな。甲子園に行ってるとき。連れて行ってくれたのはおかんでしたけど」
反抗期はなかった?
烈は小学校4年生になると地元の野球チームに入り、中学からは明徳中の野球部でプレーした。史郎の身長は165cmと小柄だが、烈は175cmまで伸びた。早熟で、小学校6年生のときにすでに165cmあったという。身体能力も高く、小・中学時代はエースとして活躍した。しかも、明徳中はただの中学ではない。全国制覇を何度も達成している名門中だ。烈の代は県決勝で高知中に敗れたものの、高知中も全国屈指の強豪である。
明徳で中学から野球の道を選んだら計6年間、自動的に日本一を目指すことになる。中途半端は許されなかった。
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だが、烈は「耐えてるという感覚はなかった」と振り返る。
「野球が好きでしたし、そこにおったら野球を存分にできるわけですから。野球が嫌になってグレるとか、そんなんもなかった。反抗期みたいなのも、なかったですもん。まあ、ここにおったら、誘惑とかもないですからね。道を逸れることができない」
「おまえは監督の息子だからや」
とはいえ、逃げ場のない環境が圧力となり、破綻してしまうケースはいくらでもある。 状況的に脱線が許されなかったという物理的な側面もあったにせよ、烈がその道を真っ直ぐ歩み続けられた最大の理由は、やはり彼自身に相応の実力が備わっていたからだろう。
「補欠でしたとか、一切、試合に出られなかったというのならね、うん、話は変わっていたかもしれないですね。野球やんの、嫌になっていたかもしれない」
ただし、葛藤がなかったわけではない。中学時代は周りの選手たちの風当たりに何度となく心がくじけそうになった。
「いじめっていうんじゃないんですけど、からかいに近いのかな。試合に出たりすると、『おまえは監督の息子だからや』とか言われる。中学ぐらいだと、そういうのを自分の中で消化できないじゃないですか」

