甲子園の風BACK NUMBER
「都立の進学校」が甲子園出場の奇跡…“1980年の国立高校”はなぜ強かった?「新入生のうち3人は初心者」「じつは部存続の危機だった」エースの証言
text by

渋谷淳Jun Shibuya
photograph bySankei Shimbun
posted2026/08/21 11:10
1980年夏の甲子園に出場した国立高校。自由な校風で知られ、多くの卒業生が国公立大学や難関私立大学に進学する
事実、国立は市川たちが入学する3年前に西東京大会でベスト8、入学前年にベスト16に進んでいた。頭の中は桜美林一色の市川だったが、両親の勧めもあって都立への進学を考え始める。調べてみると国立野球部には市川忠男というOB監督がいて、地元で家業の「市川洋服店」を営みながらフルタイムで学生たちを教えていた。監督は東京が東西に分かれていない時代に都ベスト4に進出したときのエースで、卒業後も社会人野球で活躍したキャリアの持ち主だった。
一方の立川は学生監督で、野球部の成績は国立よりも落ちた。だから市川は立川ではなく、どうしても国立に行きたかった。そして運よく国立に振り分けられた。あとから考えれば、のちの甲子園出場メンバーのうち一人でも立川に振り分けられていたら、運命はどうなっていたか分からない。
同期のうち3人は野球初心者「部存続の危機だった」
市川の代の新入部員は十数名。のちに甲子園に出場する彼らが最初から大いに期待されていたかといえば疑問である。中学時代にこれという実績を残していた選手は、のちに主将となり4番を打った名取光広くらい。桜美林のユニフォームを着ようと思っていた市川でさえ、中学時代は軟式野球部に所属し、しかも目立った戦績を残していたわけではなかった。
ADVERTISEMENT
新入生のうち3人は野球初心者だった。中学時代に岩村太郎と西尾裕はバドミントン部、森川純はブラスバンド部に所属していた。この3人が3年の夏にレギュラーとして甲子園の土を踏むとだれが想像しただろうか。さらに入学当初、2年生は3人、のちに2人となり、市川が「もしうちの代が少なかったら部存続の危機だった」と語るのも大げさな話ではなかった。
かすかな光の一つは選手の意識が高かったことだ。市川を含めた数人は受験を終えると、入学式の前から野球部の練習に参加した。強豪校なら当たり前かもしれないが、スカウティングのない都立では珍しいだろう。もう一つの光は指導者の存在である。
