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「江川卓をエースにする」長嶋茂雄監督の苦難の時代を支えた左腕・新浦壽夫はなぜ江川のサポートに?「長嶋さんの“巨人のエース”のイメージは…」
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byBungeishunju
posted2026/07/31 11:03
監督就任初年度はまさかの最下位、その後も日本一を奪回できない長嶋茂雄は「エース」の存在を求めていた
「ベンチ裏では大変でしたね。壁を蹴ったり、バットケースを倒したり。監督のストレスは相当なものがあったでしょうね。僕も宿泊先で怒られたことがあります」
長嶋がいくら鼓舞しても、選手を叱りつけても、チームの状態はよくならない。終わってみれば47勝76敗7分、勝率は.382。球団創設初の最下位に沈んだ。チーム打率は.236(リーグ6位)、チーム防御率は3.53(リーグ5位)だった。
勝ち星に恵まれない新浦
新浦は37試合に登板(先発は12)し、2勝11敗でシーズンを終えた。
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「数字的に見ると、打たれてばかりと思われるかもしれないけど、そんなことはないんですよ。ランナーを出したまま降板して、リリーフが点を取られることも多かったので」
今のような分業制が進んでいなかったため、ローテーションピッチャーがリリーフとして登板することも、リリーフの連投も珍しくなかった。
「3連投なんて当たり前。自宅にコーチがやってきて『今日は悪かったな。また頼むぞ』と言われたこともありました。監督の指示なのか、コーチの判断なのかわかりませんが、そういう気遣いをしてもらい、意気に感じて投げました」
108イニングを投げて防御率3.33。24歳の若手としては及第点だと言えるだろう。しかし、勝ち星に恵まれなかったという事実は残った。
チーム改造でリーグ連覇は遂げたが……
屈辱的な成績に終わった巨人はシーズン後に大改造を行った。パ・リーグで7度首位打者に輝いた張本勲を日本ハムからトレードで獲得。“塀際の魔術師”の異名を取ったレフトの名手・高田繁をサードにコンバート。大リーグでセカンドを守っていたジョンソンを定位置に戻した。
翌1976年は、若手の台頭が目覚ましかった。新浦が初めて二けた勝利を挙げ(11勝)、小林繁は18勝8敗2セーブという成績を残した。チームは76勝45敗9分、勝率.628でリーグ優勝を飾った。
続く1977年には小林が18勝、新浦が11勝をマークした。チームは80勝46敗4分、勝率.635でリーグ連覇を果たした。
「でも、巨人はリーグ優勝じゃダメなんですよ。日本一にならないと」
山田久志、福本豊、加藤秀司らのいる阪急ブレーブスに挑み、1976年は3勝4敗、1977年は1勝4敗と、2年続けて屈したのだ。

