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「『ダメなものはダメ』と言ってあげる人がいないと」甲子園で17年ぶり1勝…ある名門校監督が“自由→規律”を選んだワケは?「厳しくなっても…」
posted2026/03/25 06:18
甲子園で17年ぶりとなる勝利を果たした東北高校の我妻敏監督
text by

田口元義Genki Taguchi
photograph by
Sankei Shimbun
センバツは2004年、夏は2009年以来となる勝利である。
甲子園出場43回を誇る名門、久方ぶりの聖地での凱歌となった。東北高校を率い帝京長岡戦での初陣を飾った我妻敏は、過ぎ去りし時を実感できない様子を見せていた。
「あまりそこは考えたことがなかったです。試合中は夢中だったんですけど、いざ勝利してみると『そんなに空いちゃっていたんだな』という感じでしたね」
17年ぶりの甲子園勝利…指導者の「異質の経歴」
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43歳。指導者としてはまだ若い。だが、我妻の東北高での年輪は異質だ。
高校2年となる1999年のセンバツに控えメンバーとして出場。05年に公民科の教師として母校に戻り、監督として09年と16年の夏に甲子園で指揮を執っている。
10代、20代、30代、40代と、各年代で甲子園を経験していること。それだけならまだしも、彼の経歴にこそ特異性がある。
この間、彼はずっと監督業に勤しんでいたわけではない。26歳の08年に指揮を執ることとなったのは、部内の不祥事により当時、監督だった五十嵐征彦が責任を取る形で現場を退いたからであり、10年に復帰してからは副部長となった。
監督としての原体験を挙げるとすれば、この時期だと我妻は即答する。
「東日本大震災のあった年(11年)も、監督だった五十嵐先生と一緒にセンバツを経験させてもらいました。先生との縁というのは、とても強いものとなりました」
13年に五十嵐の後任として監督となり、34歳の16年の夏に甲子園で2度目の采配を振るった我妻は、18年に東北高を離れた。23年からは母校の東北福祉大でコーチに専念していたなか、昨年の8月に我妻は三度、監督として、東北高伝統のタテジマに袖を通すと決意を固めたのである。
素朴な疑問がある。
2度も監督を退き、学校を離れた立場として「今の仕事のままでも十分だ」と考えることはなかったのか?

