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野ボール横丁BACK NUMBER
大谷翔平を超えていた“消えた天才”は今「私みたいになって欲しくない」プロ野球を諦めた“その後”…仙台育英の“ベンチ外”同級生は巨人でプロに
posted2025/12/20 11:05
仙台育英高のエースだった渡辺郁也(2012年夏の甲子園)
text by

中村計Kei Nakamura
photograph by
Sankei Shimbun
その書籍のなかから“消えた東北の天才”を紹介する。あの大谷が落選した楽天ジュニアでエースだった男、渡辺郁也。彼を追って、仙台を訪ねた。【全4回の4回目/第1回~第3回も公開中】
<東北で世代ナンバーワン投手と評価された渡辺。仙台育英高校でもエースとして夏の甲子園2勝。そして青山学院大に進学した。しかし大学時代に「野球に絶望し、プロを諦めた」と話す。天才が告白する「ライバルたちに抜かれていく恐怖」。>
◆◆◆
渡辺が大学4年生になった2016年は、大谷が二刀流プレーヤーとしていよいよ本格化しつつある時期でもあった。最終的に投手として10勝を挙げるだけでなく、自己最多となる22本塁打をマークし、日本ハムを日本一に導いた。
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就職活動中だった渡辺はその頃、三つのことから逃避しようとしていた。それは野球と、東京と、そしてこれから社会に出なければならないという現実だった。
「あのときは仙台に戻って営業をやるっていうことしか考えていなくて。東京は嫌だったんです。いい思い出もないし、人がいっぱいいるのが苦手で。(就職について)深く考えるのが嫌だったので、会社もソッコー決めちゃいました。もう5月ぐらいには内定をもらっていたと思います」
野球にまつわる記憶で渡辺の中でもっとも輝いて見えるのは小学校時代だという。
「小学生のときがいちばん楽しかったですね。親父が仕事終わって帰ってくるのを待って、二人で練習して。ずっと練習に付き合ってくれたんです。バッティングネットもつくってくれました。ただ、すぐに壊れちゃうんで、どんどん大きく、頑丈になっていって、最終的にはコンクリートに打ち付けてくれて。夜も練習できるようにって照明もつけてくれました。たまにバッティングセンター行きたいって言ったら、いつでも連れて行ってくれましたし、道具とかもいろいろ買ってくれて。仕事が忙しくなってきて、付き合えないからってなったときはトスマシーンを買ってくれたんです。やらされるみたいなことはなくて、私も楽しんでやっていたので」
それは父親も同じだったことだろう。いや、日々、息子が成長する姿を見ることができた父親は、子ども以上に幸福だったに違いない。
「野球、やめるから」
渡辺が両親に野球をやめると告げたのは就職先が決まったあとだった。

