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「お母さん…俺、仙台育英にするわ」“ノーコンだった少年”が甲子園で大活躍&ドラフト候補に成長するまで「元バレー代表“伝説リベロ”の母」が明かす成長物語
text by

田中夕子Yuko Tanaka
photograph byJIJI PRESS
posted2025/12/12 11:07
沖縄尚学との激闘の記憶が新しい仙台育英高・吉川陽大。元バレーボール日本代表でリベロとして活躍した母・津雲博子がここまでの歩みを振り返った
出発の朝、博子さんと一緒に仙台に向かう陽大よりも先に兄は家を出た。「がんばれよ」という兄に、「お前もな」とそっけなく応える弟。男兄弟なんてそんなものか。だが、新幹線に乗った途端、陽大は人目をはばからず泣き続けた。そして学校から帰宅した兄も「陽大がいなくなった」と突っ伏して泣いた。
「夫が俺も悲しいと言うと、『違う。俺のほうがずっと一緒にいたんだ』と。お互いを認め合っていたのでしょうし、中学生までは兄弟でバッテリーを組むことも多かった。親としては本当に幸せな気持ちになりました」
博子さんの想像通り、メンバー争いは厳しい。2年春に初めてメンバー入りを果たしたが、先発投手、完投まで任されるようになったのは背番号1をつけた秋になってからだった。
高校近くに部屋を借りてサポート
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離れて暮らす日々。親としてはどんな毎日を過ごしているのか気になるのは当たり前。欲しいものはないか、持っていけるものはないか、という日常のやり取りを重ねるだけでなく、博子さんは「何度も行くならホテルを取るのと変わらないから」と仙台にアパートを1室借りた。練習試合や公式戦にも足を運び、毎回「球速上がった?」とたずねていた。
陽大はその都度「145(キロ)出るようになった」と答えていたが、ある日、真顔で言われた。
「お母さん、野球は球速じゃない。ただ速いだけじゃ、きれいに当てられたらその分飛んで行くでしょ。だから大事なのは回転とコントロール、俺はスピンやコースで勝負するから」
感心していると、続く言葉に真髄を突かれた。
「お母さんがさ、バレーを知らない人にあれこれ言われたらどう思う?」
「嫌だね」
「俺も同じ。嫌だよね」
何げないやり取りだったが、同じアスリートとして息子が成長していることを実感し、以降、野球の質問は控えるようになった。


