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「お母さん…俺、仙台育英にするわ」“ノーコンだった少年”が甲子園で大活躍&ドラフト候補に成長するまで「元バレー代表“伝説リベロ”の母」が明かす成長物語
text by

田中夕子Yuko Tanaka
photograph byJIJI PRESS
posted2025/12/12 11:07
沖縄尚学との激闘の記憶が新しい仙台育英高・吉川陽大。元バレーボール日本代表でリベロとして活躍した母・津雲博子がここまでの歩みを振り返った
博子さんは2003年に現役生活を引退。それから2年後に長男が、3年後の2007年に陽大が誕生した。1歳違いの兄弟が野球を始めたのは小学生の頃。生後8カ月からつかまり立ちするほど運動能力に長けた弟は、間もなくピッチャーとなったが、母の記憶に違わず当時はコントロールに難があった。そんな陽大を覚醒させ、技巧派投手への道を開いたのが中学時代に所属した横浜都筑シニアの伊藤洋一郎監督だ。
入団前の陽大に「キャッチボールをしよう」と声をかけ、数十球を投げ合った伊藤監督はすぐさま博子さんのもとへやってきた。
「お母ちゃん、この子はいいよ。プロになるかもしれない」
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ストライクが入らないのに? 驚愕する博子さんに、伊藤監督は断言した。
「ストライクが入る、入らないは練習すれば何とでもなる。でもこのボールの回転は、教えてできるものじゃないんです」
当時のやり取りを回顧しながら、博子さんが笑う。
「私も旦那も野球のことはわからないから、ピッチャーはストライクを取ることがすべてじゃないの?って思うわけですよ。だって、バレーボールでサーブが入らない子を見て『この子はいいよ、プロになる』と言われても意味がわからないじゃないですか。伊藤さんも同じ左投げのピッチャーだったので、いろいろなことを教えてくれたみたいです」
須江監督が“お母さん”を見たかった理由
中学2年になった陽大が“左投げの二番手”にまで成長を遂げた頃、予期せぬ訪問者が現れる。その翌年、夏の甲子園を制する仙台育英の須江航監督だった。
伊藤監督から「陽大の視察にくる」と聞いていたものの、半信半疑だった博子さんは買い物に出かけた。すると、携帯電話が鳴った。夫・正博さんからだった。
「急いで帰ってきて。お母ちゃんを見たいらしいんだよ」
須江監督の要望だった。慌てて戻ると、須江監督は家族を交えて学校紹介や野球部の特徴をパソコンを開きながら理路整然と示し、「一度グラウンドに来て下さい」と言葉を残して帰っていった。
その後、実際に施設を見学して帰ってきた息子は声を弾ませて言った。
「お母さん、俺、仙台育英にするわ」
神奈川県からの宮城県への越境留学。強豪校で過ごす3年間。博子さんはあえて厳しい言葉をかけた。
「3年間、アルプススタンドにいて応援するだけかもしれないよ?」
陽大は迷わず答える。
「勝負してくる」
息子の決意を知った母は背中を押すだけだった。


