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息子は仙台育英エース、ドラフト会議も現地で…元祖“世界一のリベロ”津雲博子(55歳)の今「野球にどハマり」「仙台にアパートまで借りちゃった」
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田中夕子Yuko Tanaka
photograph by(L)Jun Tsukida/AFLO SPORT(R)JIJI PRESS
posted2025/12/12 11:05
仙台育英高校エースとして活躍した吉川陽大(右)。元バレーボール日本代表の母がここまでの歩みとドラフト会議当日の様子を振り返った
少しずつセンターの動きがわかり始めたころ、ライトへポジションが変更された。それでも自主練習で磨いた攻撃を武器に実業団リーグで準優勝に貢献。入れ替え戦で敗れ日本リーグへの昇格は果たせなかったが「来年は上がれる」と手ごたえをつかんだ。そんな矢先、チームの廃部が発表された。
幸い、地域リーグのカネボウが譲渡を受け入れ、津雲をはじめとする大半の選手が移籍したが、その翌年、今度はカネボウが業績不振で廃部になった。相次ぐポジション変更、そして廃部が二度も続けばさすがに心も折れる。
「バレーボールをやめて広島へ帰ろう」
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そう心を決めた津雲はお世話になった人たちへ挨拶状を送った。すると、NECの関係者から電話が来た。
「練習、来てみない? (監督の)葛和(伸元)さんから電話が行くと思うから、準備しておいてね」
本当にすぐに電話が来て、翌日から練習に参加した。あっという間にNECに採用が決まると、津雲は1993年からレフト、ライトをどちらもこなすアタッカーとして重宝され、出場機会を重ねていく。さらなる転機は移籍から3年が過ぎた1996年だ。
新設された“守備専門”のポジション
アトランタ五輪が開催されたその年、バレーボール界で初めて「リベロ」というポジションが新設された。当時はまだ正式採用ではなく、あくまで試験的な新ルールの導入だったが、2000年シドニー五輪に向けて強化を進める日本代表としても「リベロ」の発掘・育成は急務だった。
そんな中、1997年に日本代表監督に就任したのが津雲をNECに引き寄せた葛和だった。葛和をはじめ、日本代表の首脳陣は頭を悩ませた。レシーブ力に長けた選手は多くいたものの、攻撃することが許されない“守備専門”のポジションを受け入れられる選手はいるのか。「リベロ」が定着する前の当時からすれば、選手探しは容易いことではない。そこで葛和は古巣であるNECに目をむける。白羽の矢が立ったのが津雲だった。
たまたま顔を合わせたとき、津雲は何の気なしに葛和に尋ねている。
「リベロって、どういう制度なんですか?」
葛和はひと通り説明をした後、切り出した。
「お前、リベロやりたいか?」
そこまで深く考えたわけではない。津雲は即答した。
「(キューバ代表のミレーヤ・)ルイスの球とか、拾ってみたいですね」
葛和からすれば、まさに願ったり叶ったり。リベロとして日本代表に初選出された津雲はワールドグランドチャンピオンズカップでベストリベロに輝く活躍を見せた。
「リベロどうこうではなく、私自身もテスト採用だったはず」と笑うが、1998年にリベロが正式採用されると、津雲の名はここから世界に轟いていく。


