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「神のお告げだ」“バルサ18億円移籍話”が破談も…FWジュニーニョとフロンターレの幸せな関係「べティスからの誘い…心は全く動かなかった」
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沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byShigeki Yamamoto
posted2025/12/12 11:02
川崎フロンターレ時代のジュニーニョ
「日本人選手が非常にスピードがあり、またよく走ることに驚いた。プレシーズンの練習試合で、僕が抜き去ったばかりの選手がすぐにまた僕の前に現れた。こいつはニンジャか、と思ったよ(笑)」
――川崎では、2003年にJ2で39試合に出場して28得点。2004年は39試合で37得点という驚異的な数字を残し、得点王に輝きます。
「チーム戦術に慣れ、家族共々、日本での生活にも問題なく順応できて、良い結果を残すことができた」
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――チームメイトとのコミュニケーションは?
「日本語のフットボール用語を覚えたから、ピッチ上では問題なかった」
――2004年のシーズンオフには、ベティス(スペイン)からオファーがあったそうですね。
「毎年、ブラジルのビッグクラブからオファーがあったし、2004年のシーズンオフにはベティス(スペイン)からオファーが来たと代理人から聞いた。でも、公私両面で日本での生活がうまくいっており、2005年からはJ1でプレーできる。心は全く動かなかった」
V逸はテセの責任じゃない
――2005年には初のJ1で、16得点をあげてチームは8位。2006年は20得点をあげ、チームは2位。2007年は22得点で、得点王となります。J1とJ2で得点王になったのは、当時、エメルソン以来2人目の快挙でした(注:現在では、佐藤寿人、ピーター・ウタカを含めて4人)。
「J2の頃からフロンターレでプレーし、クラブの上昇と共に僕もステージを上げてきた。その意味で、とても誇りに思っている」
――Jリーグで、フロンターレは2008年と2009年にも2位となったが、惜しくも優勝には手が届かなかった。当時、あなたとツートップを組んだ鄭大世(チョン・テセ)は、『大事な試合で自分が点を取れなかった責任を感じている』 と話しています」
「いや、彼の責任じゃない。チームは、全員でプレーして、その結果を全員で受け入れなければならない。当時だって我々には優勝に値する力は十分にあったと思うけれど、本来なら勝ち点が取れていたはずの試合で、ベストのパフォーマンスを出すことができなかった」
なぜフロンターレ退団→鹿島加入したのか
――2011年末にフロンターレを退団し、2012年に鹿島アントラーズへ入団した。ライバル・クラブへ移ったことで、落胆したファンもいたようです。
「僕としては、引き続きフロンターレでプレーしたかった。でも、クラブから契約延長のオファーがなかった。フロンターレ退団が決まったのち、ブラジルと日本の複数のクラブからオファーを受けた。熟慮の末、もう少し日本でプレーを続けたいと思ったので、鹿島を選んだ」
こうして、心ならずも、フロンターレから「太陽」が去っていった。〈つづきは下の【関連記事】へ〉

