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「1000万払えないなら…わかってんのか?」“3禁を破った”アイドルレスラーに経営陣が凄んで…“女子プロ界の聖子ちゃん”と呼ばれた立野記代が今明かす
posted2025/11/13 17:01
神取忍をSTFで攻める立野記代(LLPW時代)
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
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東京スポーツ新聞社
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中学卒業後に全日本女子プロレス興業(通称・全女)に入団し、1981年にデビューした立野記代。男性から好まれる容貌と粘り強い押さえ込みで人気選手の仲間入りを果たし、「女子プロ界の(松田)聖子ちゃん」のニックネームで親しまれた。1986年には同期の山崎五紀とJBエンジェルスを結成し、日本人女子プロレスラーとして初めて米国WWF(現WWE)で成功を収めた立野が、驚きのエピソードを語った。
「もうやめます。プロレスなんて忘れました」
「(愛称は)気づいたら言われてた、みたいな感じです。テレビを観て、初めて知ったんだから。『えっ、私のこと? 私が聖子ちゃん?』みたいな」と立野は語る。当時の全女には「選手がなにかを要望しても受け入れてはもらえない、絶対的な権限」があったため、特に確認も異議申し立てもせず、そのまま受け入れていたという。
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当時の全女には「3禁」と呼ばれる酒、たばこ、男女交際の禁止事項があったが、立野は17歳頃から年上の一般男性と交際していた。
しかし約3年の交際の末、フラれてしまった立野は「もうプロレスをやめよう」と思い、1週間ほど試合を欠場。新聞には「熱のため欠場」と書かれていたが、実際は失恋が原因だった。会社には「もうやめます。プロレスなんて忘れました」と伝えた。
そんな彼女を経営陣の松永4兄弟が呼び出した。高司社長が「おまえ、なにやってんだよー」と話を始めると、俊国マネージャーが「おまえにいくらかけたと思ってるんだ! 耳をそろえて1000万円を1時間後に持ってこい。それでも少ないぐらいだ!」と猛烈に迫った。
「払えないならなにをするか、わかってんのか?」経営陣の言葉で、立野の運命はどうなったのか――? 詳しくは本編で描かれている。
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この文章の本編は、以下のリンクからお読みいただけます。
