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「試合中に卵巣が破裂して…」全女の元人気アイドルレスラーを襲った悲劇「生理も45歳でとまった」立野記代が救急車の中で伝えた“引退宣言”
posted2025/11/06 11:01
全女時代は「女子プロ界の聖子ちゃん」と呼ばれた元プロレスラーの立野記代さん
text by

伊藤雅奈子Kanako Ito
photograph by
L)Takuya Sugiyama、R)東京スポーツ新聞社
◆◆◆
1991年3月、全日本女子プロレス興業(通称・全女)の規則にあった「25歳定年制」にならって、25歳で引退した。その後は半年ほど、全女が経営していたカラオケボックスで店長をしたが、アルバイトと同額の低賃金だったために退社。元全女の巴ゆき子さんがオーナーだったパブのラ・セーヌで働きながら、92年に旗揚げされた新団体・LLPW(現、LLPW-X)のメンバーに名を連ねた。
02年8月に東京・武蔵小山で、同団体でキャリアが5年後輩のハーレー斉藤さん(享年48)と「ドリンクバー 悟飯」(現、GOHAN)を開業。選手と飲食店経営を並行させていたが、45歳だった10年10月に2度目の引退を余儀なくされた。ドクターストップだった。
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立野 全女をやめたあとは、なにをしたいっていうのがほんとになくて。中学を卒業して全女に入ってるから、学歴がないし、25歳でやめてもやりたいことが見つからなかったけど、とりあえず、手に一生の職をと思った。人が苦手だったんで、っていま水商売やってるけど(笑)、あのころは人が嫌いで、犬、猫だったら会話しなくてもいいなぁみたいな感じで、動物が好きだったっていうのもあって、トリマーの学校に行ったの。行ったんだけれども、生活できるほどの給料を最初はもらえないなぁとなったときに、「あっ、私の手に職ってプロレスなんだ!」って気づいて、プロレス界に戻った。
「給料が遅れたり、もらえないこともあって…」
――全女退団後は、カラオケボックスの店長もしていましたよね。
立野 そう、そう。あれも「お給料を上げてください」って言えばよかったんだけど、半年でやめて。で、ラ・セーヌは巴ゆき子さんが全女(の松永俊国元社長)から買い取ってやってたんで、そこでバイトして。私と巴さんは全女時代にかぶってないから、お母さんみたいな感じで、ほんとにすごく良くしてもらった。LLPWでカムバックしたときも、まだバイトは続けてて、お世話になってるから、「やめたい」って言いだせなくて。そしたら、「プロレスをやりだしたんだから、もうバイトはしなくてもいいんじゃないの」なんて言ってもらえて、それでプロレス一本にしたのね。
――現役中の02年にお店を開業したのは、なぜですか。
立野 そのころには会社(の経営)が厳しくなってて、わりと給料が遅れたり、もらえないこともあって……って、いまならもう言ってもいいかな? あのころはね、会社のみんなが誰も言わなくて、会社を守ったんだけれども。そんな状況だったんで、誰にも迷惑をかけないで、なにかをやらないといけないなぁと思って。それで、全女時代から遊ぶ仲で、LLPWでは後輩になったハーレーを、「共同経営っていう形でやらない?」って誘ったら、「しばらく考えさせてください」って言われて。「えっ、同じくいま食べるのに困ってるのに、考えんの?」って思ったけど、さいちゃん(斉藤さんの愛称)は親が商売をやってたから、大変だと思ったんだろうね。

