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将棋PRESSBACK NUMBER
「朝4時まで紛糾…突然の棋士生命延長制度」元A級棋士が見た“順位戦舞台ウラ”「今期は羽生善治も谷川浩司も」タイトル獲得棋士がB級2組にズラリ
text by

田丸昇Noboru Tamaru
photograph byNanae Suzuki
posted2025/08/14 11:01
タイトル通算99期の実績を持つ羽生善治九段。現在は順位戦B級2組で戦っている
〈1975年1月〉
日本将棋連盟は、将棋と囲碁は文化的に同格との観点から、将棋名人戦の契約金(当時は約3300万円)を囲碁名人戦と同額にするように主催者の朝日新聞社に要求。朝日の当初の回答額は7500万円だったが、連盟の要求に応じて1億1000万円で決着。
〈75年12月〉
読売新聞社は日本棋院と和解し、囲碁棋聖戦を創設。契約金は囲碁名人戦を上回る1億6000万円となる。
〈76年5月〉
連盟は総会で将棋名人戦の契約金は、序列第1位の囲碁棋聖戦と同額にすることを決定。朝日は名人戦が第35期を迎えた記念として1000万円を増額し、1億2000万円と回答。その後、連盟と朝日で協議が続いたが不成立。
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〈76年7月〉
連盟は朝日との名人戦契約が終了の旨を発表。
〈76年9月〉
連盟は毎日新聞社と名人戦の契約を締結したことを発表。契約金は3年総額で約5億円。戦前に名人戦が創設されたとき、主催者は毎日新聞社だった。27年ぶりに古巣に戻った。毎日が主催する順位戦では、C級2組の昇級者が2人から3人に増員された。奨励会の新規定による四段昇段者の増加で、C2の人員が増えたからだ。
そして1987年には奨励会の四段昇段規定が変更となった。三段以下が合体した制度は廃止され、現行の三段リーグが始まった。成績上位者2人が四段に昇段した(前期・後期で年間4人)。その後、次点2回で四段昇段、強豪アマや女流棋士を対象とした「棋士編入試験」の実施、竜王戦で2期連続昇級など、棋士への門戸は開かれていった。
「フリークラス」制度ができた32年前の経緯とは
1992年3月。私はB級1組順位戦の最終戦で、勝者がA級に昇級する直接対決で島朗七段(当時29)に勝ち、棋士20年目・41歳でA級への昇級を果たした。私は当時、将棋連盟の理事を務めていて、棋戦運営などを担当していた。毎日新聞社のある幹部からは、「C級2組の人数がかなり多いので、何とか調整してください」と要請された。直近の5期で平均53人だった。
私は委員会を開設し、有志の棋士たちと順位戦など棋戦全般の見直しを図った。しかし、C級2組の人員を減らすために降級規定を厳しくすることは現実的に難しい。そんな状況で、ある長老棋士が以前に提唱した「第二現役制」が俎上に載った。順位戦から任意で退いても、現役を続けられる制度だ。
いろいろと検討した結果、棋士が順位戦から退きやすいように、原則として65歳まで現役を維持できる(当時のC3資格者の定年は60歳)ことにした。また、待遇面で優遇を図るに当たり、上位棋士の既得権の問題が生じたが、A級棋士の私が推進したことが説得力となった。
そのほかに、名人経験者がA級降級で引退に追い込まれないようにすること、また普及に尽力したい、などの棋士の受け皿にする趣旨があった。この制度は「フリークラス」の名称がつき、1993年の連盟総会で決定された。
「これで棋士生命も延びました」
フリークラスへ最初に転出した40代半ばの棋士は、C級2組で毎期のように降級の危機に陥っていた。「これで棋士生命も延びました」と、ほっとしたように語った。

