- #1
- #2
Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
巨人若手が長嶋茂雄にキレた日「監督! 自分もやってみろ!」“地獄の伊東キャンプ”伝説…巨人軍にシゴキがあった時代「殴ったりもした」コーチの鉄拳制裁も
text by

永谷脩Osamu Nagatani
photograph byAFLO
posted2025/06/30 17:47

第1次政権時代の巨人・長嶋茂雄監督。1979年、「地獄の伊東キャンプ」で18人の若手をシゴいた
巨人は80年代に入り、ドラフトで高校生の指名を続けていた。1981年に槙原、82年に斎藤雅樹、83年には水野雄仁と、高校生投手を3年連続で1位指名したのである。槙原が当時を振り返る。
「江川さんたちが元気だったので、チームに余裕があったんじゃないですか。2、3年、多摩川でじっくり鍛えて、徐々に戦力にしていけばいいと考えていたようです」
当時の投手コーチだった高橋善正は、容赦なく若手をしごいていった。
ADVERTISEMENT
「善さんにはこれでもか、これでもかというくらい、一日中走らされていました。さらに『腹筋、背筋を鍛えて死んだ奴はいない』と言われ、まさに死ぬほど鍛えられた。とにかく下半身の強化と、守備や牽制などの基礎練習を徹底しました。多摩川は隠れる場所がないし、砂ぼこりが舞うのでユニホームも真っ黒、泥だらけになる。前近代的な練習ですが、同年代が集まって切磋琢磨することで、戦う集団になっていくのが分かりました」(同前)
「殴ったりもしました」
槙原は2年目に一軍デビューを果たすが、その時、江川ら先輩投手は彼らの時代が早く来るのではないかという危機感を持っていた。
「多摩川であんなに走り込んできたからな」
案の定、槙原は初登板で完封勝利を挙げ、ローテーションの座を掴んでしまうのである。
1983年、“鬼軍曹”として若手を育て上げた名伯楽、須藤豊が二軍の守備走塁コーチとして復帰すると、猛練習に拍車がかかった。須藤はかつて、川上政権に守備コーチとして迎えられた際、巨人の猛特訓の原点である茂林寺“千本ノック”を実際に受けた白石敏男(勝巳に改名)に当時の話を聞きに行ったことがある。自分が若手に実践するためには必要だと感じたからだった。
多摩川に再び戻ってきた“鬼軍曹”は藤田元司監督にこう頼まれていた。
「高校出の選手を徹底的に鍛えてほしい」
須藤が語る。