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将棋PRESSBACK NUMBER
「藤井聡太17歳も…初タイトルが10人以上」棋聖戦の“意外と知らない”歴史ウラ話「フジテレビ創業者が熱烈な升田幸三ファンで」
text by

田丸昇Noboru Tamaru
photograph byJIJI PRESS
posted2025/05/31 11:00

第91期棋聖戦第4局に勝って、自身初かつ史上最年少となるタイトルを獲得し、笑顔で記者会見する藤井聡太棋聖
産経新聞社が将棋のプロ公式戦を主催したのは、74年前の1951(昭和26)年からだった。当初は産経杯争奪トーナメント戦、早指し王位決定戦を主催し、62年に5番目のタイトル戦として棋聖戦を創設した。60年代半ばの頃は、大山康晴名人がタイトルをほぼ独占していた。宿命のライバルといわれた升田幸三九段、若手精鋭の二上達也八段、加藤一二三・八段らの挑戦を退けていた。
実業家の水野成夫はフジテレビの創業者で、58年に産経新聞社の社長に就任した。その水野は熱烈な升田ファンだった。知人を介して升田と初対面すると意気投合し、両者の交友は水野が72年に亡くなるまで続いた。
升田のタイトル獲得を願った“1日制”
水野は、升田がタイトル戦で大山になかなか勝てないのは、将棋の実力ではなくて体力の違いだと思った。そこで升田のタイトル獲得を願って、新しい形式のタイトル戦を創設することにした。
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60年代半ばのタイトル戦(名人戦、王将戦、十段戦、王位戦)は、いずれも2日制・七番勝負で、持ち時間は各10時間だった。そこで棋聖戦はタイトル戦で初の1日制・五番勝負で、持ち時間は各7時間とした。現代の順位戦は持ち時間が各6時間で、両対局者が持ち時間を使い切ると終局は深夜に及ぶ。それと同じく棋聖戦も決して楽ではない。ただ升田にとって、1日制は体力を少しでも温存できたようだ。
大山と升田、米長18歳の逸話とは
62年2月、棋聖戦の創設を記念して大山名人(当時38歳)と升田九段(43)の三番勝負が行われた。その第2局で米長邦雄三段(18)が記録係を務めた。この一局で、3人にまつわる逸話が残っている。
米長は大山と升田の激闘を注視し、対局者のように読みふけった。当時の奨励会員にとって一番の勉強法だった。大山は終盤の土壇場で63分も長考し、升田の玉を詰めにいった。しかし、わずかに詰まず升田が勝った。
升田は終局直後、記録係に声をかけた。
「米長くん、詰んどったんじゃないか」
すると米長は「はい。竜を切って金を打ち、後で銀を打てば詰みです」と、打てば響くように詰み筋を指摘した。それを聞いた大山は「あっ!」と声を上げた。