革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「野茂は野球ができなくなるんじゃないか」近鉄同僚が見た野茂英雄と球団の“決裂”と“MLB移籍”「どうやって行くんだ?」「絶対無理や」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byTakahiro Kohara
posted2025/05/30 11:03

野茂が苦渋の決断で日本球界での退路を断つさまを見ていた佐野、石井、吉井、光山らは「大丈夫なのか」と固唾を飲む思いだった
すごい世界がある
「自分の憧れの先輩が打たれてたんです。こりゃ、すごい世界があるんや、いつか、あそこで投げたい、って思ったんです。まだ1軍で、ほとんど投げたことのないその時に、そう思ったんです。
あれをきっかけに、自分でも野球にしっかり取り組むようになりました。実際、1年目なんか、記憶にないくらい成績が“すっとこどっこい”で、3年目とかでも、ストライクが1球も入らんのとちゃうか、というようなピッチャーだったんで」
いつかはきっと、メジャーのマウンドに立ってやる。
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理想の投手像に掲げたのは、歴代最多のサイ・ヤング賞7度を獲得する「ロケット」こと、ロジャー・クレメンス。吉井は、自分で調達したクレメンスのポスターを、藤井寺のウエートトレーニング室と自宅の居間に貼り、闘争心をかき立てた。
目標が定まれば、その歩みも力強くなる。4年目の87年にプロ初勝利を含む2勝を挙げて台頭すると、翌88年には名将・仰木彬、投手の分業制を確立させた投手コーチ・権藤博のもと、その強気な性格を買われてストッパーに抜擢される。10勝24セーブで最優秀救援投手賞のタイトルを獲得し、89年のリーグ優勝にも5勝20セーブで貢献するなど、まさしく「近鉄に吉井あり」という存在に駆け上がっていく。
メジャー挑戦など「何を言っているんだ」
「自分も、クローザーやってる頃から、球団に『メジャーに行かせてくれ』って言ってたんですけど、球団からは『アホか』で終わりやったんです」
当時、FA権を取得してメジャーに行くという発想もなければ、ポスティング・システムもない。メジャーに行くというルートも確立されていない。そもそも、日本人のメジャー挑戦など「何を言っているんだ?」というような風潮でもあった。
だから、野茂がメジャーに行くという噂が広まった時にも、吉井にはまず、懐疑的な思いの方が、先に立ったのだという。