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「野茂は野球ができなくなるんじゃないか」近鉄同僚が見た野茂英雄と球団の“決裂”と“MLB移籍”「どうやって行くんだ?」「絶対無理や」 

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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photograph byTakahiro Kohara

posted2025/05/30 11:03

「野茂は野球ができなくなるんじゃないか」近鉄同僚が見た野茂英雄と球団の“決裂”と“MLB移籍”「どうやって行くんだ?」「絶対無理や」<Number Web> photograph by Takahiro Kohara

野茂が苦渋の決断で日本球界での退路を断つさまを見ていた佐野、石井、吉井、光山らは「大丈夫なのか」と固唾を飲む思いだった

吉井理人の述懐

 吉井理人は、自らの憧れでもあったメジャーの世界で活躍する野茂の姿が「衝撃でした」と振り返る。

「野茂の実力なら、いけるだろうなという風には思っていたんです。でも、ホントに行って、ホントにそうなるとは思わなかったんです。野茂の活躍は見ていて、自分の日本での投球には、モチベーションとしてかなり影響はありました。おー、あいつ、頑張っとるなと。午前中、野茂の試合を見て、夜、自分が投げるということも何回かありましたからね」

 2023年から、吉井は千葉ロッテの監督を務めている。

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 1年目2位、2年目3位と、2年連続でチームをクライマックスシリーズ(CS)に進出させた。また日本ハム、ソフトバンク、ロッテでは投手コーチを歴任、その間、サンディエゴ・パドレスのダルビッシュ有、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平、同・佐々木朗希ら、メジャーへ渡った逸材たちを育成、マネジメントするなど、球界内でも高い評判を得ている名指導者の一人でもある。

吉井のメジャーへの憧れ

 その吉井は、1998年から5年間、メジャーでプレーし、通算32勝を挙げた。98年のニューヨーク・メッツでは、同僚として野茂と“再会”も果たしている。1983年のドラフト2位指名で、和歌山の名門・箕島高から近鉄に入団した若かりし頃から「とにかく大リーガーになりたい、という気持ちしかなかった」。

 かねてからメジャーへの強い憧れも抱いていたというその吉井が、メジャーへの思いをより募らせることになる、とある“きっかけ”があった。

 石本貴昭は兵庫・滝川高出身。吉井の3年先輩になる左腕は、近鉄の一時代を築いた不動のリリーバーだった。85年は70試合登板、19勝3敗7セーブで最高勝率のタイトルを獲得。86年には64試合、8勝3敗32セーブをマークし、2年連続で最優秀救援投手賞を獲得。近鉄を代表するストッパーは、86年の日米野球のメンバーに選出されていた。

 吉井は当時3年目。1軍で通算4試合登板に過ぎない、名もない若手の一人だった。

 その日米野球で、先輩の石本がメジャー打線に痛打された。3試合、5イニングを投げて3失点、防御率は5.40と、散々な結果に終わっている。

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