革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「野茂は野球ができなくなるんじゃないか」近鉄同僚が見た野茂英雄と球団の“決裂”と“MLB移籍”「どうやって行くんだ?」「絶対無理や」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byTakahiro Kohara
posted2025/05/30 11:03

野茂が苦渋の決断で日本球界での退路を断つさまを見ていた佐野、石井、吉井、光山らは「大丈夫なのか」と固唾を飲む思いだった
日本の「任意引退」が、アメリカでは「自由契約」の扱いになるという、野球協約の解釈は確かに通用する。しかし、だからといって、それがイコール、メジャーでのプレーを確約するものではない。村上雅則が、南海(現ソフトバンク)からの野球留学の形で派遣されていたマイナーから昇格、メジャーでプレーすることになったのは、1964年からの2シーズン。以後、日本人がメジャーでプレーした例はなかったのだ。
日本のトップ選手が「フリー」だからといって、ならば、すぐに獲ろうというメジャー球団が出てくるとは、とても考えづらい時代背景でもあった。
野茂は野球が続けられるのか?
メジャーが獲ってくれなければ、野茂はどこでプレーするつもりなんだ?
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佐野の心配も、この点に凝縮されていたのだという。
「だからみんな、共通していたこと、心配していたのは、野茂は『野球ができなくなるんじゃないか?』ということだけだったんです。野球さえ取り上げられなければ、どこでやろうが、仲間は仲間じゃないですか。だから、それはそれでいいと。まあ、野茂は一切、弱音を吐かんかったけどね」
野茂のメジャー挑戦は、決してルール違反ではなかった。しかし、日本風に言えば、道義からは完全に外れているとも言えた。近鉄退団を表明した後に「恩知らず」「わがまま」という非難が日本中に巻き起こったのは、己の希望を押し通さんがために、野球協約の盲点をついた、いわば“横紙破り”にも映ったからだ。
「言ったら、変えへんですからね、野茂は」
それでも、光山英和はこう信じていたという。
「絶対行く。近鉄をクビになって、野球を辞めてでも向こうに行くわ、と思いました。もう、言ったら、変えへんですからね、野茂は」
紆余曲折、そして多くのハードルを乗り越え、夢への扉を野茂はこじ開けた。