バレーボールPRESSBACK NUMBER
「葛藤があったのは確かです」監督の慰留を断りNEC退団…「レギュラー全員日本代表」のチームから、浦田聖子がビーチバレーに転向するまでの真相
posted2025/03/17 11:01

「ビーチの女豹」の愛称で親しまれた浦田聖子さん
text by

吉田亜衣Ai Yoshida
photograph by
Shiro Miyake
「第77回春の高校バレー」(以下・春高)で栄えある女子優勝を飾ったのは、29回の出場を誇る伝統校・共栄学園高だった。OGである浦田聖子はスタンド席から後輩たちに声援を送り、19年ぶり(2005年以来)の歓喜の瞬間を母親のような気持ちで眺めていた。
「準決勝、決勝を見に行きました。今年はNECで一緒だった大友(旧姓)愛さんの長女・美空さんがエースでキャプテン。彼女が崩れた場面は一度もありませんでしたね。ビーチバレーで活躍している選手たちもレギュラーでがんばっていました。年を重ねたからなのか、感動して涙ながらに見ていました」
“春高ヒロイン”と呼ばれた裏の「不甲斐なさ」
付属の共栄学園中学校からバレーボールを始めた浦田にとって、やはり春高はひとつの目標だった。
ADVERTISEMENT
「小学校の時に遊びでバレーをやっていたので、中学校もバレー部があるところに入りたいと思い、強豪校とは知らずに受験したんです。身長はすでに170cmあって頭一つ抜けて大きいので、太田(豊彦・当時の顧問、現明海大バレーボール部監督)先生に声をかけられました。見学だけのつもりが、学校の前に練習着を売っているお店があるから、と先生から言われて、そこからするするっと(笑)」
入学した年に春高バレーで共栄学園高が初優勝を果たした。その光景を間近で見た浦田は「自分も同じ舞台に立ちたいと思いました」とのめり込んでいった。
「振り返ってみると、私の中に眠っていた負けず嫌いな気持ちが『グワーッ!!』と出てきたように思います。上手な先輩たちについていくのも必死でしたけど、それなりの練習はしているので、みるみる技術を習得していく感覚はありました。先輩たちについていけるようになったら、それが楽しさに変わっていきました」
共栄学園高に進学した浦田は、持って生まれた身体の強さと柔軟性を活かし、スパイクもレシーブもそつなくこなすプレーヤーへと変貌を遂げていく。春高のシーズンを迎える頃には、ホスト局が毎年取り上げるヒロインとして注目を集めたが、内心はそれどころではなかったという。
「もう必死でした。優勝候補とも言われていたし、ブラスバンド部がきてたくさんの方に応援していただいている晴れ舞台でしたから。なのに、コロッと負けちゃって(97、98年大会ともに2回戦敗退)。最後の年はキャプテンとしてエースとして、達成感とか持っているものを出し切ったという気持ちはゼロでした。自分の不甲斐なさにへこみました」