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「葛藤があったのは確かです」監督の慰留を断りNEC退団…「レギュラー全員日本代表」のチームから、浦田聖子がビーチバレーに転向するまでの真相
text by

吉田亜衣Ai Yoshida
photograph byShiro Miyake
posted2025/03/17 11:01

「ビーチの女豹」の愛称で親しまれた浦田聖子さん
「レギュラー全員日本代表」NECの過酷な練習
6年前に掲げた目標は達成できなかったが、高校3年時ユース代表に選出された。そこでピンチサーバー、翌年のジュニア代表ではリベロを経験した浦田は1999年、NECレッドロケッツに入団した。当時のNECといえば、レギュラー全員が日本代表という顔ぶれ。ピンチサーバーで出たり入ったりしていた浦田がスタメンを獲得したのは、入団3年目2001年の頃だった。
「NECは国内トップを走っていたチーム。当然練習も厳しかった。そのうえでさらにレギュラー陣が朝練習や試合後に練習をするんです。新人でレギュラーでもない私たちも混ぜてもらうんですけど、遠征から帰ってきた翌日などは眠くて心が折れそうになるときもありました(笑)。そんな偉大な先輩たちがいたから、頑張ることができた。代表メンバーが抜けた年に、ようやく試合に出られるようになって、ここから行くぞ! という気持ちでした」
浦田は、長年代表のエース、チームを支えた大懸郁久美が守ってきたレフトポジションに入った。『ポスト大懸』として出場した2001年の黒鷲旗全日本選手権では優勝を経験。第8回Vリーグ(2001-2002)では磨き抜いてきたジャンプサーブや器用さを武器にフレッシュな活躍を見せていた。
「すぐに辞めてどうするんだ」父の反対を押し切って退団
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しかし2002年春、NEC退団とビーチバレーへの転向を突如発表した。
「入社を決めた時、3年は絶対に辞めないと決めていました。それでもその間、すごく大変だったこと、チャンスもなかなか巡ってこない状況だったので葛藤があったのは確かです。それでも、自分で決めた3年はがんばろうと思っていました。そのタイミングで、ビーチの話が舞い込んできたんです」
ビーチバレーは2000年のシドニー五輪で高橋有紀子/佐伯美香組の試合を寮の部屋で見たのが初めて。正直、一度も経験したことがなかった。浦田は2002年のVリーグ終了とともにチームへ進退を告げた。
「先輩から順に監督と面談をしていくんですけど、下級生は『来年もがんばります!』で終わるところを『すみません、辞めます』と言ったものだから。すんなりとは終わりませんでした。そのとき、チームからは今後の可能性をいろいろ示していただいて、引き留められました」
チームで高みを目指すか、ビーチバレーという新しいことに挑戦するか。家族にも相談した。父は「そんなにすぐに辞めてどうするんだ」と反対した。浦田は深く悩み続けた。精神的なものが身体に影響したことはこれまでの人生で一度もなかったが、点滴を打つほど体調を崩した。それでも最終的にはビーチバレー転向の想いは揺るがなかった。