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「落合監督の配慮がなければ今の自分は…」中日→楽天金銭トレードは“温情”だった「地獄のキャンプでニコーッと」落合博満の素顔を鉄平が語る
text by

間淳Jun Aida
photograph byHideki Sugiyama,Kyodo News
posted2025/02/27 06:01

中日時代、「土谷」表記だった頃の鉄平。楽天へとトレードに出した落合博満監督が見せていた素顔とは
「そうだろう、そうだろう」
指揮官の思惑通りだったのだろう。ニコーっと表情を緩めた落合監督が、鉄平の脳裏に今も刻まれている。
走塁のスペシャリストより、打撃を磨く道を選んだ
記憶をたどっても、この件と第1回で触れた一軍昇格直後のフリー打撃時の2つ以外に会話した覚えがない。落合監督就任1年目の2004年、鉄平は一軍デビューを果たし、主に途中出場で50試合に起用されている。落合監督に直接聞くチャンスがなかったため、鉄平は何を評価され、何を期待されて一軍に呼ばれたのか正確に理解していなかった。
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「どのチームでも監督が代わると方針が変わり、出場機会を得る選手が出てきます。自分も、その中の1人でした。当時の落合監督は一芸に秀でた選手を推奨していました。自分の場合は、おそらく足が評価されたのかなと推測しています」
鉄平は、一芸に秀でた選手の方が一軍に呼ばれるチャンスは多いと感じていた。だが、“近道”を選ぼうとは考えていなかった。
「自分にもスペシャリストの道が敷かれている気がしていました。もちろん口にすることはありませんが、個人的には嫌でした。一芸ではなく、レギュラーになりたかったんです。チーム方針とは逆行していましたが、とにかく打撃練習を頑張りました。打てる選手になってスタメンでコンスタントに試合に出たい気持ちが強かったです」
走力を磨けば、一軍に定着できたかもしれない。しかし、それではレギュラーから遠ざかる。鉄平は打力を磨く道を選択した。その結果、2005年は一軍の出場試合数が2試合に激減したが、二軍では3割を大きく超える打率を残した。
一軍投手相手にも手ごたえを感じていた中で
鉄平は何の勝算も見出さず、わがままで打撃で勝負しようとしたわけではない。2004年に一軍の投手と対戦したことで、収穫を得ていたのだ。
「その時点で一軍に通用する打力ではありませんでした。ただ、途方もない球だとは思わなかったんです。初対戦の投手に対しても、バットに当てることはできました。一軍投手のコントロールと切れの良さには驚きましたが、スピード感には対応できる感触がありました」
球速表示は変わらなくても、一軍と二軍の投手は違った。鉄平は「直球が荒ぶっているんです。最近の言葉にすると、回転数が多いと言えるのかもしれません」と表現する。プロ初打席は一軍と二軍の差を象徴するようだった。