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「落合監督の配慮がなければ今の自分は…」中日→楽天金銭トレードは“温情”だった「地獄のキャンプでニコーッと」落合博満の素顔を鉄平が語る
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間淳Jun Aida
photograph byHideki Sugiyama,Kyodo News
posted2025/02/27 06:01

中日時代、「土谷」表記だった頃の鉄平。楽天へとトレードに出した落合博満監督が見せていた素顔とは
2004年4月30日の横浜ベイスターズ戦。鉄平は7回に代打で起用された。マウンドには加藤武治。勝利の方程式の一角を担う中継ぎで、サイドスローから投じる最速152キロの直球を武器としていた。鉄平は緊張で震える足を押さえるように打席に立つ。そして、その直球の速さに目を疑ったという。
「サイドスローから150キロを超える球は初めて見ました。何て速いんだと」
最初は直球にバットが出ない。だが、何球かファウルを重ねるとスピードに慣れてきた。最後はバットを折られながらも右翼手の前に運び、初打席で安打を記録した。
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「意図的にファウルにしていたのではなく、打ちにいってファウルになっていたのですが、打席の中で少しずつ対応できるようになっていました。変化球もファウルだったものの、バットに当てることはできていました。初めての球に反応できたことで自信が付きましたね」
23歳の金銭トレード…落ち込んだが後々聞いた話では
鉄平は打撃で勝負し、レギュラーを目指す覚悟を決めた。この選択こそが運命を分けた。楽天に移籍後、野村克也監督をはじめとする首脳陣に打力が目に留まったからだ。
「レギュラーになるには、特に外野手の場合は打力が求められます。結果的に中日で一芸を磨く道ではなく、打撃にこだわったことが功を奏しました」
楽天で首位打者に輝くなど、鉄平は新天地で花開いた。ただ、2005年オフに中日からの金銭トレードが決まった時はショックが大きかった。
「かなりの驚きがありました。二軍では打率3割3分、4分を打っていましたから」
まさか、自分が――。当時、23歳。遠くない将来に中日の外野陣が世代交代する時、鉄平の力が必要になるとみていたコーチや選手は少なくなかった。
「トレードには落ち込みました。やっぱり生え抜きとして、中日で野球人生を全うしたい気持ちがありましたから。でも、数日で切り替えました。レギュラーになる大大チャンスだと前向きに捉えましたね。後々聞いた話では、二軍で結果を残せば別のチームで活躍するチャンスがあると他の選手たちに勇気を与えるトレードだったそうです」
落合監督の配慮がなければ…感謝しています
落合監督と過ごした時間は短かった。交わした会話も歴代の監督と比べて圧倒的に少なかった。だが、多くを語らなくても野球との向き合い方は伝わってきた。鉄平が語る。