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落合博満43歳「私の時代は終わった」…落合がショックを受けた“23歳の天才バッター”「オレは終わっていた選手なんだ」日本ハムで涙を見せた日
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/12/30 11:16
日本ハム時代の落合博満(43歳)。「おれは終わっていた選手なんだ…」珍しく弱気ともとれる発言をした
やがて落合のバットも日本ハムのチーム状態も上向いていく。4月20日のオリックス戦では、苦手な屋外デーゲームで4年ぶりの2号アーチ。24日のダイエー戦、延長10回裏一死満塁の場面で打席に入った背番号3の平凡な三塁ゴロが、相手のエラーを誘いサヨナラ勝ち。一塁上で落合は年下の選手たちに囲まれ祝福されると苦笑いを浮かべながら、「やっぱりパ・リーグの野球だ。あきらめねえや」とパ初の同一カード3試合連続サヨナラ勝ちを喜んだ。
気がつけば、4月下旬には43歳の四番打者は打率を3割に乗せ、日本ハムも7連勝で勝率5割に戻した。4月30日時点で1ゲーム差の中に6球団がひしめく混パ。16年ぶりの優勝に向けて、「相手はオリックスだけや」と上田監督はリーグ連覇中のライバルを強く意識したが、両チーム間でもうひとつの戦いが、にわかに注目を集めていた。
43歳の落合博満と、23歳のイチローの最多安打争いである。
「私の時代は終わったと実感した」
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昭和の三冠王と平成の安打製造機――。
落合がパ・リーグを離れていた10年間で、選手の顔ぶれは様変わりしていた。その世代交代の筆頭格が、神戸に颯爽と出現したひとりのヒットメーカーだった。年間210安打を放った1994年のイチローフィーバー以降、背番号51は3年連続の首位打者とMVP。さらには“がんばろうKOBE”の象徴となり、95年にオリックス初のリーグ優勝、96年には日本一へと導き、日産自動車やアサヒビールのCMにも出演。平成球界を代表するスーパースターへと駆け上がっていた。
1997年5月3日、日本ハムの本拠地でもある東京ドームのプリズムホール前には、イチローをイメージした衣料品やグッズを取り扱うイチローカジュアルの専門店「I(アイ)=オールライト」がオープンする。まさに時代の寵児でもあった背番号51と、巨人をリストラされた“中年の星”の顔合わせは話題を呼び、落合が移籍第1号を放った4月18日のオリックス対日本ハム戦は、当時のパ・リーグとしては異例のフジテレビのゴールデンタイムで生中継されていた。百戦錬磨の落合にとっても、日本ハム移籍後に遭遇したイチローの規格外の打撃は衝撃だった。
「私は2年余り彼のバッティングを間近で見て、技術の高さもさることながら、これが近代野球と言うのなら私の時代は終わったと実感させられた」(野球人/落合博満/ベースボール・マガジン)