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大学ラグビー伝説の名勝負「雪の早明戦」が語り継がれる理由とは? 吉田、堀越、今泉…規格外の1年生が演出した壮絶なゲームの結末
posted2024/12/12 15:00
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph by
KYODO
このメモリアルブックに収録の「伝説の早明戦5番勝負」から、今なお語り草の「1987年、雪の早明戦」記事の全文を紹介する。
雪の早明戦が伝説となったのは、「これぞ早明戦」と呼ぶにふさわしい要素が詰まった傑作だったからだ。100年の歴史を超える早明戦という物語においても、あの日だけは特別だった。
朝、目覚めてから雨戸を開けると、一面の銀世界。雪。しかも大雪だった。
朝には雪が止んでいたが、足元は悪い。ところが、総武線・信濃町駅を降りると、明治の小旗を持った学生が大勢いる。当時、早慶明の学生はジャージの色をデザインした小旗を持って応援するのが流行だったが、明治の学生の動員力には他校を圧するものがあった。
このシーズン、明治は筑波に敗れて8勝1敗(当時の対抗戦はA、Bグループに分かれておらず、話し合いで対戦校を決めていたため、試合数にばらつきがあった)。明治は早明戦に勝てば優勝となる。
対する早稲田はここまで8戦全勝。ただし、盤石だったわけではない。11月8日の筑波戦は秩父宮が改装中だったため、試合は強風の早稲田大学所沢キャンパスで行われ、早稲田は3-0で筑波の猛攻を耐えて勝った。
この「耐える」という言葉が、1987年度の早稲田のキーワードとなる。
好ゲームを演出した1年生たちの躍動
早明戦では、グラウンドの脇に雪だるまのような塊がいくつもできていた。学生や協会関係者が朝から必死に雪かきをして、どうにか試合をする環境が整えられた。
14時過ぎ、キックオフ。こういう天気の試合ではテリトリーがモノをいう。前半5分、早稲田が敵陣深くに入り、明治ゴール前で明治ボールのラインアウトを迎える。しかもゴール前1m地点でのラインアウトだ(現在のように5mまで戻るルールはなく、ボールが出た地点でのラインアウトとなる)。それに加えて、当時のラインアウトはジャンパーを持ち上げるのは反則。スローワーであるHOと、ジャンパーであるLOの阿吽の呼吸によって成立していた。このラインアウトで早稲田の5番・篠原太郎が明治ボールをスティール。そのままゴールラインに飛びこんで先制トライを挙げた。
対する明治も黙ってはいない。前半18分、SO加藤尋久が早大陣左隅に蹴ったボールを秋田工業出身の1年生WTB吉田義人が押さえた。一瞬のスピード、キレ味、重要な場面での集中力。吉田はこの時から大器であることを示していた。その後双方1本ずつPGを決め、7-7の同点で前半を折り返す。
この年の早明戦は、「1年生」のプレーが際立っていた。明治の吉田だけではない。早稲田は160cmのSH堀越正巳が対抗戦を通じて活躍し、のちにFBが定位置となる今泉清は11番を着けていた。
将来、日本代表となるこの3人だが、この早明戦から存在感を発揮していた。特に堀越の八面六臂の活躍は見ている者を驚かせた。早稲田の9番といえばボール捌きの巧みさがトレードマーク。堀越のパスは流麗で、さらにカバーディフェンスが見事だった。キックを蹴りこまれると、そこには必ず堀越がいた。無尽蔵のスタミナ、試合の流れを読むセンス。この後、堀越は早稲田の顔となっていく。
後半が始まると早々に今泉がPGを決め、10-7と早稲田がリードする。今泉はキックを蹴る際、一歩ずつ後ろに歩を刻むのに特徴があり、のちに「1、2、3……」と掛け声がかかるようになるのだが、この時点ではまだその声は聞かれない。
ここから試合は膠着状態に陥る。タフなテニスの試合のようにボールは行き来し、戦術的交代が許されていないこの時代、両軍の選手たちは泥まみれになって相手を倒すことに集中していた。