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大学ラグビー伝説の名勝負「雪の早明戦」が語り継がれる理由とは? 吉田、堀越、今泉…規格外の1年生が演出した壮絶なゲームの結末
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byKYODO
posted2024/12/12 15:00
ノーサイドの瞬間、歓喜の早稲田と膝をつく明治。両軍とも泥まみれになりながら名勝負を繰り広げた
3点差のままの後半40分過ぎからドラマが始まる。明治は自陣からカウンターを仕掛け、早稲田陣深くへボールを蹴りこむ。堅守を誇っていた早稲田FB加藤進一郎が雪の影響だろうか、ボールが手につかず、楕円球はインゴールへとこぼれる。そこへ早明両校の選手が殺到。真下昇レフェリーの判定は早稲田のキャリーバック、すなわち明治ボールのスクラムとなる。
これぞ早明戦──長い歴史のなかで何度も何度も組まれた、早稲田ゴール前、明治ボールのスクラムだ。
「雪の早明戦」はここから真骨頂を迎える。16人によって組まれたスクラムからは、白い湯気が立ち昇る。NHKで実況を担当していた斎藤洋一郎アナは、こう言った。
「この、湯気!」
明治が押す。早稲田は耐える。何度目のスクラムだろうか、明治はキャプテンのN0.8大西一平がサイドアタックを試みる。それに対して早大FB加藤が頭からタックルに行って防ぐが、そのまま倒れて動かない。密集で早稲田は反則を犯していた。
ペナルティキックを決めれば、同点。しかし、大西はショットを選択しなかった。最後の最後に選んだのはサインプレーだった。
明治SHの安東文明が右サイドへと大きく振ると、早稲田が必死のタックル。続いて明治はSO加藤が突進を試みるが、その手からボールがこぼれる。ノックオン。その瞬間、真下レフェリーは笛を長く吹いた。ノーサイド。すでに時計は47分を示し、早稲田の歓喜が爆発した。
伝説のゲーム、その後
試合後に忘れがたいことがある。早稲田の木本建治監督が長靴を履いていたことだ。アイビーファッション全盛の80年代、冬にラグビー部員たちはステンカラーコートを着て、紺ブレ、レジメンタルのネクタイに、黒のローファーを合わせるのが定番だった。しかし雪のこの日、木本監督は黒のゴム長靴を選んでいた。「知将」にとってファッションは二の次、リアリストの本性が脚もとに表れていた。一方、明治の御大、北島忠治監督はスタンドでたばこをくゆらせていた。生きていれば、いろいろな試合があるさ──とでも言いたげに。
早稲田にとって雪の早明戦は、さらなる栄光への序曲となった。大学選手権に入ると13番には「第3の1年生」、藤掛三男が入る。のちに藤掛は日本代表のCTBへと成長するが、栃木・佐野高校時代はFW、第3列の選手だった。しかし、「木本構想」によって夏合宿の段階から、大分舞鶴高校時代はFWだった今泉とともにBKへとコンバートされた。藤掛は大学選手権準決勝の大阪体育大学戦で衝撃のラインブレイクを見せ、早稲田のアタック力は飛躍的に増した。
大学選手権決勝の相手は同志社。13-10と僅差のリードで迎えた後半30分、早明戦を彷彿とさせる早稲田ゴール前でのスクラムが組まれる。早稲田はこれも耐える。そして試合終了間際に逆襲、藤掛の突進から最後は右WTB桑島靖明が右隅に飛びこみ、この日3トライ目のハットトリック。19-10のスコアで、早稲田は11年ぶりの優勝を果たす。表彰式の後、スクラムを耐え抜いた左PR、永田隆憲主将のリードで「荒ぶる」が国立競技場に響いた。
早稲田の物語はさらに続き、1月15日、国立競技場で行われた日本選手権で、社会人王者の東芝府中を撃破。1971年度以来、16年ぶりとなるラグビー日本一を手にした。これ以降、学生と社会人の差は広がり、日本選手権の制度も変わったことから、学生が日本一になったのは早稲田が最後となった。