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「俺は勝負師じゃない…」天才棋士・中原誠に敗れた“元天才少年”が賭博で多額の借金も「電話代だけは払っておくものだね」と語ったワケ
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田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKyodo News
posted2024/12/09 06:01
1965年の芹沢博文。中原誠らとしのぎを削った棋士人生について、在りし日を知る田丸昇九段が振り返る
最終戦の3月13日の前日、米長は以前から慕っていた芹沢と会った。勝負に恬淡な芹沢は「ヨネ、目の前の相手を幸せにしてやれ」と言って、大野の昇級を暗に望む口ぶりだった。しかし米長はこう激励した。
「芹沢さんのためにも、明日は大阪で必ず勝ちます。それを信じて戦ってください」
これを聞いた芹沢は「ようし、中原をぶちのめしてやる!」と語気を強めた。
俺は勝負師に向いていない…中原は何も変わらなかった
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大野−米長戦は大野がずっと優勢だったが、米長の懸命な粘りによって終盤で大野が寄せを誤り、米長が逆転勝ちした。米長は後年に「相手の大事な一番こそ全力で戦え」と提唱した。世にいう「米長哲学」で、その原点となったのが大野との対局だった。
東京の芹沢−中原戦は、終盤まで激闘が繰り広げられ、芹沢が決め手を逃したことで中原が逆転勝ちした。
当時は現代のようにネット中継はないし、ファクスで棋譜を確認できなかった。しかし芹沢は独特の勘で、米長の勝利を察知したようだ。終局直後に「おめでとう。これでお前はA級八段だ」と、中原を祝福した。まもなく関西本部への再三の電話で、米長の勝利が判明した。
失意の芹沢は、観戦していた若手棋士たちを誘って飲みに行き、朝の8時頃に帰宅した。和子夫人に結果を聞かれ「負けたよ。中原が八段に昇段だ」と答えた際の「あら、良かったわね。お祝いに何をあげようかしら」との言葉に救われたという。
芹沢は後日に米長と会ったとき、こう率直に語っている。
「俺は勝負師に向いていない……。大阪でヨネが勝ったと思ったら、それまで無心に指していたのに、指し手が急に乱れてしまった。中原は鈍だから何も変わらなかった。その違いで負けた」
なお芹沢は自ら活字中毒と言うほどの読書家で、『文藝春秋』『週刊新潮』などの雑誌記事は必ず読んでいた。尊敬する文筆家は山本夏彦、渡部昇一、好きな作家は藤沢周平、西村寿行だという。洒脱な筆致のエッセーを、一般誌に書いて好評だった。ある将棋雑誌で連載した表題は「のむ打つ書く」。
プロ公式戦の観戦記もよく書いた。筆名の「鴨」は、新選組の幹部の芹沢鴨を連想する。実際には鎌倉時代の随筆『方丈記』を著した鴨長明の一字を取ったという。長明のような名文を書いてみたい、という願望があった。
ダジャレと専門的解説の名調子で人気だった
芹沢は将棋番組で解説をよく務めており、そこでも“言葉の才能”を発揮していた。

