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「負債総額は37億円」…『極悪女王』で話題の「全女」を作った“松永一族”の栄枯盛衰を振り返る 社長の自死に元リングアナ「言葉にならなかった」
posted2024/11/01 11:01
text by
欠端大林Hiroki Kakehata
photograph by
Hiroki Kakehata
クラッシュ・ギャルズの引退後、会場に閑古鳥が鳴いた全日本女子プロレス(全女)は、他団体との「対抗戦」に活路を見出そうとした。
長きにわたり、国内唯一の女子プロレス団体として市場を独占していた全女だが、1986年に秋元康プロデュースによる「ジャパン女子プロレス」が旗揚げ。90年代に入ると大仁田厚のFMWに女子部門が設置されたほか、前述のジャパン女子から分派したLLPW、JWPなども誕生。そこで対抗戦が始まったのは、多団体化にともなう必然の流れだったと言える。
もっともこの対抗戦について、全女でリングアナウンサーをつとめた今井良晴氏(故人)は「苦肉の策だったと思います」と証言している。
「女子プロレスは、男子のプロレスと似て非なるものであるというのが会長(松永高司氏)の持論でした。男子プロレスを真似たような対抗戦は、独自の女子プロレスで時代をリードしてきた経営者として内心、忸怩たるものがあったのではないでしょうか」
90年代に入り、急速に悪化した全女の経営
すでにこの当時、全女の経営状態は急速に悪化していた。
バブル時代に手を出した不動産事業は地価の下落で負のスパイラルに陥り、松永高司氏が素人考えで始めた株取引では5億円が消えた。アクセスが悪すぎた秩父の「リングスター・フィールド」では興行を打つこともできず、学生プロレスにレンタルするなどしたが、維持費で赤字が拡大した。
サイドビジネスだったカラオケ店「しじゅうから」の数店舗も利益を生み出すには至らず、北斗晶やアジャ・コング、豊田真奈美らが奮闘した本業の収益も、経営全体を見れば「焼け石に水」だった。
1996年8月、全女は2日間にわたり日本武道館で真夏の2連戦に打って出る。
収益を出せると見たベースボール・マガジン社(『週刊プロレス』を発行)が興行を買い取ったが、客入りは2日間とも惨憺たる結果に終わった。