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小林邦昭はなぜ“タイガーのマスク”を剝いだのか? アンチからは嫌がらせも、プロレスラーに愛されて…佐山聡と「最高のライバル関係」の真実 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph by東京スポーツ新聞社

posted2024/09/14 11:03

小林邦昭はなぜ“タイガーのマスク”を剝いだのか? アンチからは嫌がらせも、プロレスラーに愛されて…佐山聡と「最高のライバル関係」の真実<Number Web> photograph by 東京スポーツ新聞社

初代タイガーマスクの覆面を引き裂く小林邦昭

 小林と佐山は80年代初頭に同時期にメキシコ修行をおこない、その時も共同生活を送るほど仲が良かった。のちに小林の代名詞となるマーシャルアーツスタイルのパンタロンは、もともと佐山が穿いていたものを佐山がメキシコを離れる際、譲り受けたものだ。

 その後、佐山は81年4月に新日本から帰国命令がくだり、タイガーマスクに変身し一大プロレスブームを巻き起こす。小林邦昭はこのタイガーマスクこと佐山の大ブレイクを修行先のメキシコで聞いたという。

「佐山がタイガーマスクになってすごい人気だっていうのは、風の噂で聞いたんですよ。その時は、同じ釜の飯を食った仲間の成功に『本当に良かったな』と思いましたね。ただ当時、日本の情報は入らなかったから、どれぐらいの人気なのかは想像もつかなかった。だから自分が帰国して、タイガーの人気を目の当たりにしたときは本当に驚いたし、同時に『佐山、良かったな』という気持ちは、ジェラシーと焦りに変わりましたね」

小林邦昭はなぜタイガーのマスクを剝いだのか?

 小林はタイガーマスクデビューから1年半後、82年10月8日に後楽園ホールで帰国第1戦を行うが、試合は興行の前半で組まれた何の変哲もないタッグマッチ。佐山とは大きな格差が生まれていた。

「僕の帰国第1戦のとき、ちょうど長州力が藤波さんに対して『俺はおまえの噛ませ犬じゃない!』と発言して造反したんですよ。あれが僕の心に火をつけましたね。仲の良かった佐山は、いまや猪木さんを超えるほどの大スターだし、半年ぐらいメキシコで一緒だった長州も、あの発言以降、時の人になって違う次元にいった。それに対し僕は帰国しても単なる中堅で何もなかったから、『自分も何かアクションを起こさないと、このまま終わってしまう』と焦りがあって、その矛先を向けるのは、大スターとなった佐山しかいなかったね」

 小林は10月22日の広島大会で、レス・ソントンとの試合を前にしたタイガーマスクを急襲。それを受けて、翌週26日に大阪府立体育会館で初の一騎打ちが組まれると、ラフ殺法で攻め立て、ついにはタイガーの覆面をビリビリに引き裂いて剥ぐという暴挙に出た。覆面レスラーのマスクに手をかけるというのは、暗黙のタブー。それをよりによって子供たちのスーパースターであるタイガーマスク相手に、堂々と行なったことで会場は騒然となった。

「マスク剥ぎというのは、覆面レスラーの本場であるメキシコマットでも一番観客が興奮する行為。だから、あれは試合前から狙ってましたよ。しかもタイガーの覆面は神聖なものと思われていたから、そのタブーを破った効果は絶大でした。あれから僕は“虎ハンター”と呼ばれるようになって、何十年も経ったいまでも言われるわけだからね」

実家に投げられた生卵、手紙にはカミソリが…

 小林は大阪大会の翌週、蔵前国技館での再戦でも再びマスクを引き裂き、遺恨は一気にヒートアップ。それによりテレビの視聴率も急上昇し、25パーセントを超えた。

「あのマスク剥ぎのあとは大変でしたよ。街を歩けば変な目でジロジロ見られるし、実家にも生卵が投げ込まれたりする嫌がらせがあった。僕のところには全国から不幸の手紙みたいなのが届いて、真っ赤な字で『死ね』って書いてあったり。カミソリを仕込んだ手紙もあって、封を開けたときに親指をザックリ切ってしまって、その傷跡はいまだに残ってますよ。でも、そういう手紙が大量に届いたとき、内心『やった!』と思いましたね。俺はこれぐらいヒールとして日本中のファンを本気にさせたんだなって。そうじゃなきゃ、あんな手紙なんて来ないですから。あのとき、淡々といい試合をしたとしても、たくさんいるタイガーマスクの相手のひとりでしかなかった。あそこでインパクトを残せなかったら、『小林邦昭』というレスラーはそれで終わりだったんだから」

【次ページ】 今も色褪せない「最高のライバル関係」

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