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プロ野球PRESSBACK NUMBER
西武に“電撃トレード”松原聖弥が実は仙台育英で“メンバー外”だった高校時代…練習試合で広まった大谷翔平伝説「打球が校舎を越したって…」
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph byNanae Suzuki
posted2024/07/05 11:00
インタビューに答える松原聖弥(トレード発表前の6月20日に撮影)
「入った時点では『オレ、いけるわ』って思っていたんですけどね……。自主性を重んじるというところに惹かれたのに、いざ自主性、ってなると僕の性格上、どうしても楽な方に行ってしまった。自分で自分を追い込んだりもできなかったし、そういうところでどんどん他の選手と差がついたのだと思います」
当時のチームには、才能ある選手が揃っていた。1学年下にも上林誠知(現中日)、熊谷敬宥(同阪神)、馬場皐輔(同巨人)らが次々に入ってきて、松原はレギュラー争いから脱落していく。結局、高校3年間で、公式戦に登録されたのは2年の秋だけ。3年夏は、チームは甲子園出場を果たしたものの、松原はメンバー外だった。
「大谷や!」花巻東との“忘れられない”練習試合
「最後の夏は選ばれたいという気持ちが強かった。だからすごく悔しかったです。甲子園ではアルプススタンドで応援していました。大太鼓を叩いて……」
同学年の花巻東高・大谷翔平の名前は、風の噂でその耳にも届いていた。最上級生になったある日、仙台育英のグラウンドで行われた練習試合に、対戦相手として花巻東の選手たちがやってきた。頭一つ抜けた大きな身体にキラキラと輝く瞳。一目でその存在がわかった。
「新チームになってすぐの頃ですかね。大谷や!って。とにかくデカかったのですぐにわかりました。確かその時は怪我をしていて、投手としては投げなかった。代打で出てきたんです。結果はセカンドゴロ。今でも鮮明に覚えているくらいなので、そのくらい印象深かったんでしょうね」
それほど鮮明な記憶なのに、松原は大谷翔平が立つそのグラウンドにいなかった。メンバー外の選手の仕事として、球場の裏で電光掲示板の「BSO」表示のボタンを操作していたのだ。
「(ボタンを)パチパチやっていました。その仕事をしながら、大谷や! って。大谷翔平は高校時代もその後も、あの時見た後ろ姿しか接点がないんですよ」
「打球が校舎を越した」球児たちに広まった“大谷伝説”
ただし、当時の球児たちの間で噂されていた『大谷伝説』はよく耳にしていた。
「他の高校に遠征に行くと噂が入ってくるんです。『大谷の打球があそこの校舎を越したらしい』とか。国士舘高校に行った時、メンバー外だったんですけど国士舘の子と話すタイミングがあって『あそこの校舎越したってほんま?』、『ガチ!』って会話したのを覚えています。外野フェンスの外にある校舎で、ありえないくらいの距離だったので、本当にびっくり。凄かったですよね、当時から」
自分とは別の次元の存在だと思っていた。いつかその大谷と同じプロ野球選手になるなんて、想像すらしていなかった。当時の松原は、「プロ野球選手」という夢さえとっくに手放していたからだ。