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MLB最速で500奪三振に到達も、野茂英雄が口にした「メジャーはそんなに甘くない」…ドジャースの初代日本語通訳が明かす「NOMOフィーバーの裏側」 

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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photograph byKoji Asakura

posted2024/02/24 11:07

MLB最速で500奪三振に到達も、野茂英雄が口にした「メジャーはそんなに甘くない」…ドジャースの初代日本語通訳が明かす「NOMOフィーバーの裏側」<Number Web> photograph by Koji Asakura

野茂英雄のドジャース時代の初代通訳が見た約30年前の名門球団の実像とは?

 野茂が日本人メジャーリーガーのパイオニアであるように、奥村氏は日本語通訳として初めてMLBの球団職員となった草分けだった。今でこそ日本人選手に通訳やトレーナーが付くのは当たり前だが、当時は異色の存在。野茂に先駆けてドジャースで活躍していた朴贊浩(チャンホ)も韓国語の通訳はチームに帯同しておらず、英語が話せない中南米の選手は、困ったら地元局のスペイン語が話せるアナウンサーをグラウンドに呼んで対処していたのだという。

当時はメディア側とギクシャクした部分も

「アメリカのメディアにとって、あくまでチームの中心選手は(マイク・)ピアッツァや、(ラウル・)モンデシー、(トム・)キャンディオッティーであって、野茂は彼らにとって面白い記事を書かせてくれる“お客さん”のような存在だったと思います。悪いことを書かれたことはありませんでしたが、インタビューを巡っては揉めることもありました。僕は野茂が野球に集中できることを優先に殺到する取材をキャンセルすることもあったのですが、よく吊し上げられましたよ(笑)。今、大谷選手の水原(一平)通訳はメディアとの関係をすごく上手くやっていますが、当時はギクシャクした部分もありました」

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 当時、通訳は試合中のベンチ入りを許可されなかった。奥村氏は野茂の登板日にはロッカールームに待機して、ベンチへ続くドアから時折顔を覗かせて状況を把握していたのだという。当然、投手コーチとのやりとりなどでは不都合もある。チームでは、ユーモアたっぷりの“奇策”を講じたこともあった。

【次ページ】 ファミリー色が強かった1990年代のドジャース

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