- #1
- #2
甲子園の風BACK NUMBER
甲子園出場“3回だけ”の新興校から今年は「ドラフト指名3人」のナゼ《5年連続プロ輩出》京都国際高のナゾを追う「最初は部員を揃えるために…」
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph byFumi Sawai
posted2023/11/18 17:00
15年前から京都国際高校の野球部を率いる小牧憲継監督。同校からは近年、5年連続でプロ選手が輩出されている
「曽根は2年上にお兄ちゃんがいて、弟は野球が出来ると聞いていて。性格はやんちゃな上に家庭環境があまり良くなくて、進学という選択肢は考えられなかったんです。
中学生の時にプレーする姿を見て、一線級の名門校に行けるほどではないですけれど、足と肩はそこそこ良い印象でした。ある高校の監督からは“そんな選手を取っていたら一生甲子園には行けんぞ”って笑われましたけれど、当時のウチにしたら十分な戦力だったんですよ」
曽根は、入学後1年夏から三塁手のレギュラーとなり、2年の夏は遊撃手、3年の夏には捕手を務めるほど野球センスは抜群だった。その後、ソフトバンクから育成3位指名を受け、4年目となる17年3月に支配下登録となった。そしてその年のフレッシュオールスターでMVPを獲ったことで曽根海成の名を知る者も多かったはずだ。
「あの頃、中学生の時の曽根を知る指導者がみんな驚いていたんですよ。“曽根があそこまでの選手になるなんて”って」
曽根の活躍で集まり出した選手たち
決して素行が良くなかったうえ、ほぼ無名の野球少年が、プロ野球界の第一線の舞台に立ったことは周囲に強い衝撃すら与えた。それから近郊の野球チームには「京都国際に選手を預ければ、ひょっとしたら……」と大きな可能性を期待する指導者も少なくはなかった。
「あの頃からですかね。ようやく“野球”ができるようになったのは」
当時、甲子園出場がなかったとはいえ、曽根の躍動する姿が“プロに進むためのノウハウを学べるのかもしれない”と野球少年の心にも刺さっていた。
17年春に入学してきた上野響平(日本ハム→オリックス)もその1人だった。
「上野はちょうど進路を決めるタイミングだった中学3年の夏に、曽根が二軍とはいえ活躍していたことが決め手になったようです」