甲子園の風BACK NUMBER
「大阪桐蔭? どこですか?」常勝軍団が無名校だった頃…初優勝メンバーを集めたのはPL戦士だった「“歩いて通える”で有力選手が一気に集結」
text by
吉岡雅史Masashi Yoshioka
photograph byHideki Sugiyama
posted2023/08/03 10:33
大阪桐蔭の生駒グラウンド。関西の有力選手が一気に集まった大阪桐蔭は1991年夏の栄冠を奪取、しかし黎明期はスカウトに苦戦していた
各地の有力中学生への募集活動を森岡が始めたのは井上のひとつ上にあたる3期生の代から。はっきりさせておかなければならないのは、中学生へのスカウト活動は学生野球憲章に抵触するということ。日本高校野球連盟は加盟校への通達の最初の項目に「いかなる場合でも高校側の指導者や関係者が中学生の家庭を訪問したり、勧誘するなどの行為はしてはならない」と明記している。もっとも、現実と規則の境界線がファジーなのは世の常。スポーツメディアは平然と「PLには伝説のスカウトマンがいる」と表記してきたし、それが問題視されたこともない。
それでも森岡は慎重に「募集活動」だと言葉を選ぶ。その上で母校のネットワークを駆使した。ただ、そこは悲しき無名校。「名刺を出しても“どこですか”と言われ続けるから、そりゃへこみましたよ」と若き日の森岡はこぼした。
主将の「スタメンから外して下さい」の懇願に監督は…
森岡がかき集めたタレント揃いのチームをまとめた精神的支柱は、キャプテンの玉山だった。前回記事の始末書の件でも分かるように、発言を文字にすると生意気と受け取られ兼ねないが、言動にはいつも愛嬌があった。コンプライアンスや感謝の言葉を高校球児に強く求める現代と違って、平成になった直後の社会が、未完成な18歳の未熟な振る舞いを許容する余裕を失っていなかったことも見逃せない要素だ。長澤は「入った瞬間からキャプテンは彼しかおらん」と言い、森岡は「玉山が周囲をひきつけ、周囲は玉山を支えようと努力する」と、天性のキャプテンシーを評した。
萩原、井上と並ぶ強打者の玉山だったが、最終学年は思うようなバッティングができなかった。夏の大阪大会8試合、甲子園の5試合でも勝負強さを発揮できなかった。決勝前夜には長澤に「スタメンから外して下さい」と懇願するほど悩んだ。しかし指揮官は「お前がおらんでどうする」と、玉山の打順を5番から1番に上げた。すると決勝戦の第1打席で二塁打を放ち、萩原の先制2ランを呼び込んだ。