ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
驚異の「身長223cm、体重250kg」 アントニオ猪木が“血まみれの大巨人”にナックルを叩き込み…名勝負はなぜ生まれた?「ただの超巨漢レスラーではない」
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2023/06/23 17:03
格闘技世界一決定戦をはじめ、数々の名勝負を繰り広げたアントニオ猪木とアンドレ・ザ・ジャイアント
元『国際プロレスアワー』(東京12チャンネル)解説者で最古参プロレス記者の門馬忠雄は、モンスター・ロシモフ時代をこう語っている。
「アンドレにとっては新人時代に国際に来日したことが幸運だったんだよ。国際でゴッチやロビンソンと闘うことで、しっかりとしたレスリングを身に付けることができた。これが技術が未熟なうちにアメリカに定着していたら、単なる見世物で終わっていたと思うね」
その後、満を持してニューヨークを拠点とするWWWFと契約を結び、先代のビンス・マクマホン・シニアの命名でアンドレ・ザ・ジャイアントに改名。ここから一気に世界的なビッグネームとなる。また新日本プロレスとWWWFの提携ルートに乗って、’74年から日本での主戦場が新日本に変わり、アントニオ猪木らと名勝負を繰り広げていくこととなる。
額から流血…大巨人に猪木は“容赦ないナックル”
70年代の新日本におけるアンドレの代表的な試合といえば、’76年10月7日、蔵前国技館で行われた猪木との「格闘技世界一決定戦」だ。同年2月の柔道王ウィリエム・ルスカ、6月のボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリに続く、猪木の「格闘技世界一決定戦」(異種格闘技戦)シリーズ第3戦であり、唯一の純粋なプロレスラー同士の一戦。
アンドレは猪木vsアリの同日、アメリカ・ニューヨークのシェイスタジアムで、’75年にアリとの世界タイトルマッチで激闘を展開して映画『ロッキー』のモデルにもなったチャック・ウェプナーとプロレスvsボクシングマッチで対戦し勝利。その結果を受けて、アンドレが「猪木がプロレス代表を名乗るのは納得できない。自分こそがプロレス代表だ」と対戦を表明した、という“触れ込み”で、プロレスラー同士の格闘技世界一決定戦が実現した。
試合は、猪木のキーロックをアンドレが軽々と肩に担ぎ上げたかと思いきや、アンドレのカナディアンバックブリーカーに対しては猪木がコーナーを蹴って、その反動でリバーススープレックスで巨体を投げ切るなど、地味と言われがちな格闘技世界一決定戦において、名場面が続出。最後は猪木がエプロンからの一本背負いでアンドレを場外へ投げ捨て、場外戦でヘッドバッドを鉄柱に誤爆したアンドレが流血。その額に猪木が容赦なくナックルを叩き込み、TKO(レフェリーストップ)で勝利した。
試合結果はアンドレのTKO負けとなったものの、アンドレが単なる超巨漢レスラーではなく、類まれな運動神経とプロレスセンスの持ち主たることを証明した闘いとなったのだ。