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驚異の「身長223cm、体重250kg」 アントニオ猪木が“血まみれの大巨人”にナックルを叩き込み…名勝負はなぜ生まれた?「ただの超巨漢レスラーではない」
posted2023/06/23 17:03
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
世界最大のプロレス団体WWEが、毎年春の祭典『レッスルマニア』に合わせて開催する殿堂入り式典、ホール・オブ・フェイム。今年は武藤敬司(グレート・ムタ)が日本人として4人目(レガシー部門を入れると7人目)のWWE殿堂入りをはたしたが、このWWE殿堂が設立されるきっかけとなったレスラーがいる。それが“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントだ。
アンドレは1993年1月27日、46歳のときに故郷フランスで死去。その年の6月3日、生前のアンドレの功績を称えるべくWWF殿堂が設立された。ある意味で、歴代チャンピオン以上にWWEおよびプロレス界に最も貢献したレスラー、それがアンドレ・ザ・ジャイアントの評価だった。
今年はそのアンドレが亡くなって30年の節目。ここであらためて大巨人の功績を振り返ってみたい。
驚異の体格「身長223cm、体重250kg」
アンドレ・ザ・ジャイアントといえば、全盛期には身長223cm、体重250kgという超大型レスラー。『ワールドプロレスリング』実況アナウンサーだった古舘伊知郎は、その唯一無二の存在感を「人間山脈」「一人民族大移動」「現代のガリバー旅行記」など、数々のフレーズで形容。中でも「一人と言うにはあまりにも巨大すぎる。しかし、二人と言うには人口の辻褄が合わない!」は、究極の古舘語録と言われた。
アメリカでのニックネームは映画『キングコング』をもじった「世界8番目の不思議 The Eighth Wonder of the World」。世界の七不思議と肩を並べる驚異的な存在、それがアンドレ・ザ・ジャイアントだった。
アンドレは1964年に故郷フランスでプロレスラーとしてデビュー。’70年1月、モンスター・ロシモフのリングネームで、国際プロレスの『新春チャレンジシリーズ』で初来日。当時の公称体重は150kgで身長のわりにはやや細身という印象。キャリアも浅く、まだまだルーキーの域を出ていなかったが、この時、たまたま同じシリーズに“帝王”バーン・ガニアが参戦しており、これがアンドレの運命を変える。バーン・ガニアは、当時、NWA、WWWF(現WWE)とともに世界3大メジャーと呼ばれた団体AWAのオーナー兼世界王者。ガニアがアンドレを気に入り、それがアメリカ進出のきっかけとなったのだ。
日本のリングで才能が開花した日
ここからアンドレはその才能を開花させていく。2度目の来日は’71年3月、国際プロレスが世界の強豪を集結させた『IWAワールドシリーズ』。ここで“無冠の帝王”カール・ゴッチ、“人間風車”ビル・ロビンソンを押さえて優勝したことで、モンスター・ロシモフという存在が、日本のファンにも広く知られるようになった。