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「藤井(聡太)先生は今も強くなっている。でも…」新鋭17歳・藤本渚が語る“将棋・家族とミスチル愛”「父とシーソーゲームを歌って」
text by
北野新太Arata Kitano
photograph byAi Hirano
posted2023/04/02 11:04
18歳の藤本渚四段。ABEMAトーナメントをはじめ今後の将棋界での活躍に期待がかかる
「本当は三段リーグを勝ち抜ける実力はなくて、なぜか勝てていただけです。少しずつ力は付いているのかもしれないですけど、自分自身を掴めてはいないんです」
瀬戸内海を望む高松市の生まれ。6歳の誕生日にプラスティック製の盤駒を両親からプレゼントされて将棋を始めた。いや、正確には贈られた時点で盤上の虜だった。
「最初は保育園でオセロを好きになって。将棋のことも知ったんですけど、保育園に盤駒がなくて。仕方ないので、オセロ盤と白黒のオセロ石で将棋を始めたんです」
いつか棋士になるような少年は常人と異なる発想を持つのかもしれない。
「白黒だけの石を将棋の駒に見立てて。8×8マスだから、最初からどれかの駒はなかったことになりますけど(笑)。友達と『これは飛車!』『それは角だろ!』なんて言い合いながらやってたみたいです」
史上最年少の県代表、「天才」と呼ばれるように
小2の終わりに地元の教室「水田将棋会館」に通い始めると、朝から晩まで盤上の世界を生きるようになる。全国に名を轟かせたのは3年時。アマ竜王戦香川大会で県内の実力者たちを倒し続けて優勝してしまう。史上最年少、8歳の県代表だった。当然のように「天才」と呼ばれるようになった。
自分には特別な才能があるかもしれない、と最初は少し思ったが、翌年の奨励会試験は全敗で不合格となった。
少年は幼くして知ることになる。己を過信してはならないこと。小さな自信など一瞬で失われてしまうものに過ぎないことを。
翌年の再挑戦で奨励会入会。棋士になる夢を追い始める。例会(対局日)の度、父の将弘さんが運転するSUVで高松市内の自宅から大阪市の関西将棋会館まで通った。
金曜の夜、遅くまで会社で仕事をした父は午前4時半に起床し、9時の開始時刻に間に合うようにハンドルを握った。淡路島を縦断し、明石海峡大橋を往復する6時間の旅だった。
「例会が終わる夕方6時まで、ずっと父は待っていてくれました。なのに、僕は昇級がかかったような将棋でよく負けて。同じような失敗を続けたりもしました。連敗したって伝えると、父は何も言ったりしませんけど少しだけ悲しそうな顔をするんです。だから、自分はなんて情けないんだろうって、僕はもっと悲しい気持ちになって……。帰り道の間、ずっと」
父の流すBGMは決まってミスターチルドレンだった
車内のBGMは将弘さんの好きなミスターチルドレンと決まっていた。勝つことで前を向いた夜も、敗れることで自分を責めた夜も、変わらず歌は流れていた。
「連勝した日は、父と一緒に『シーソーゲーム』を歌いながら陽気な気分で帰ったり。負けてしまうと内省的な曲を溺れるように聴いていました」
2級で1年2カ月、初段で2年間の停滞もした。立ち止まる時間が長くなるほど、将棋という夢は大きくなった。