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大相撲PRESSBACK NUMBER
「次は北海道新幹線で帰る」は叶わなかった…千代の富士の姉が語る“晩年のウルフ”「引退後は本当に柔らかい表情になっていた」「ある日、ポツリと…」
text by
齋藤裕Yu Saito
photograph byShigeru Tanaka
posted2023/02/18 11:03
力士を引退後は九重親方として千代大海などを指導、日本相撲協会の要職を歴任した。親方として地元に戻った時に姉に語っていたのは…
青函トンネルができるまで(1988年に開通)は青函連絡船で帰ってきて1日泊まるくらいですよ。実家では特段、アスリートらしいことはなんにも。ただ、火の通ったものを食べていました。ウニも生では食べず煮たりして。そこは気を使っているんだなと思ってみてましたね。
近くに小さい川があって、釣竿持ってそこによく釣りに行っていた覚えがあるんですよね。あとは家の中ではお酒を飲み、タバコも吸っていました。お酒は一升瓶とかはぺろっと空けちゃうんですよね。私もタバコを吸っていたので、よく親に隠れて一緒に吸いに行っていましたよ。でもある時に「まだ吸ってんの? やめなさい」って言われて、「どうしたの?」と聞くと「俺やめたよ」と。その後もまだ吸ってるのか、って私がよく怒られたんです(笑)。本とかを読んだら、貴ノ花(初代)さんからやめたら太れると言われてやめたそうで、本人の意識も徐々に変わっていったんだと思います。
両肩までいったら、自分はもう最後かな
――現役時代、確認できるかぎりでも脱臼は10回以上と多かったですが、本人は実家でそのあたりの苦しさは話していましたか?
「外れるときは痛いけど入れる時はその倍以上痛い」とは話していました。最初に左肩を脱臼したときもショックだったみたいで、「これで両肩までいったら、自分はもう最後かな」みたいなことは言っていて、実際、右肩も脱臼となった時に「もうだめかな」と思ったそうです。
――その脱臼を防ぐため、筋肉をつける肉体改造をしますが、実家でもその一端が垣間見えたりしましたか?
あまりトレーニングをしていたという印象はなくて、後々いろんなメディアを通して筋肉をつけようとしていたとか「そうだったんだ」と知ることはありましたね。
部屋の若衆を連れてイカ祭りに参加
――引退する時は何か報告はありましたか?