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消えた“ヤクルト落合博満”…なぜ野村克也の誘いを断った?「年俸が高すぎる」「プロじゃ通用しない」異端のバッターはこうして現役引退した
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2022/09/08 17:18
1996年オフに巨人から日本ハムに移籍した落合博満。当時43歳だったが3億円の2年契約と期待されていた
日本ハムで過ごした最後の2年は、まるで映画のエピローグのようだった。「4番・一塁」で開幕を迎えた97年は、4月16日の西武戦で4打数4安打と健在ぶりをアピールするが、その後は途中交代の多い起用法にも戸惑い、調子が上がらず失速してしまう。パ・リーグの広い球場に、慣れない投手の攻め、終盤には16年ぶりの6番降格も経験した。打率.262、3本塁打という期待外れの成績に終わるも、史上初めて44歳シーズンでの規定打席到達。史上2人目の1500四死球にセ・パ両リーグ1000安打も達成した。意外なところでは43歳以上の盗塁数3は歴代トップだった。
なお、オールスター戦に一塁手部門のファン投票で選出されると、全パの仰木彬監督から1番打者で起用される。始球式は当時17歳のトップアイドル広末涼子。若い選手からはしきりに羨ましがられたが、落合はその名を知らず、全セ最年長の大野豊(広島)をつかまえ、「おまえ、ヒロスエリョウコって知ってるか?」と中年サラリーマンのように笑い合ったという。
最後の試合、先発出場を断った
現役最後の打席は98年10月7日、千葉マリンスタジアムの古巣ロッテ戦だ。プロ20年目、それまでのスタイルをかなぐり捨て、打撃用手袋やサングラスを試すも効果はなく、打率.235、2本塁打と低迷すると、V争いをするチームで後半は出場機会が激減。すでに各スポーツ紙で「今季限りでの引退」が報じられていた。最終戦で有終の一発を打てば、全12球団から本塁打という記録がかかっていたが、上田監督からの先発出場の打診を「代打で始まった男だから最後も代打で」と断った。プロの職場に気遣いや同情を持ち込む気はなかった。
5回表1死、代打で登場すると全盛期と同じように素手でバットを握り、神主打法と呼ばれた独特の構えで打席に立つと、黒木知宏が投じた3球目の141kmの直球を打って一塁ゴロに倒れる。ベンチに戻る際、微かに笑みを浮かべる背番号3。華やかなセレモニーも涙もない雨中のラストゲームだ。ひとつの区切りはつけたが、退団会見では「ま、引退会見みたいなもんですね」と答えた。契約社会でオレの技術を買う球団がなければそこでお終いさ。戦う気持ちが薄れ、怒りの炎が消え、落合博満は45歳を目前に静かにバットを置いたのである。
◆◆◆
なお、その2日後の10月9日、神宮球場では野村が9年間指揮を執ったヤクルト監督の座を退任した。選手が提案した胴上げを断り、川崎憲次郎から渡されたウイニングボールもスタンドのファンに投げ入れ、名将は淡々と神宮を去った。そして、直後に阪神の監督に電撃就任して日本中を驚かすことになる。
25歳でプロ入りした落合とテスト生あがりの野村。彼らは甲子園や六大学で活躍したアマ球界のスターたちのように、最初から椅子が用意されていたわけではない。戦ってあらゆるものを勝ち取った。だから、簡単にやめて手放すわけにはいかなかった。落合は日本ハムで、野村は西武で、45歳になる年まであがき、しがみついたのだ。
男たちは最後のその瞬間まで“職業・プロ野球選手”であり続けたのである。
<前編から続く>