- #1
- #2
プロ野球PRESSBACK NUMBER
「もう、ええか」野村克也監督から“戦力外通告”を受けた男…その9年後、ノムさんから突然かかってきた電話「どうだ、高校野球は?」
text by
加藤弘士Hiroshi Kato
photograph bySankei Shimbun
posted2022/07/22 17:01
2002年11月~2005年11月まで3年間シダックス野球部監督を務めた野村克也(写真は2003年、都市対抗野球東京代表決定戦の勝利後)
そんなのも知らんのか――と怒鳴られることはなく、老将は諭すように教えてくれた。
「観察に情報分析、洞察、状況判断に決断、経験に基づく勘やひらめきは目に見えないやろ。これが『無形の力』や。『有形の力』が投げる、打つ、走る、捕る……といった目に見える動きだとすれば、『無形の力』を養い、勝ちにつなげるのが俺の野球だよ」
相馬がシダックスに在籍したのはわずか2年間。野村の指導を受けたのはその内、1年間だけだ。
しかもその2年間で2度も戦力外の危機にさらされている。それでも相馬は言う。
「野村さんに教わったということは、自分の人生で東大を卒業したぐらいの価値があると思っています。投手としてはめっちゃ苦しくて、うまくいかなくて、毎朝歯磨きしながらえずいていましたけど、シダックスは面白くて尊敬できる人ばかりだったんで」
千葉はブラバン応援も盛んな地域だ。「美爆音」で有名な習志野や、「チャンス紅陵」など多くのオリジナル曲を有する拓大紅陵が全国の高校野球ファンに愛されている。
「就任後、ウチが『チャンス紅陵』とかをやっているんですよ。『何で? ウチは中央学院じゃん』って。そこで『シダックスファイヤー』をやってくれという話をして。シダックス野球部のマネジャーだった梅沢直充さんに相談して、作曲者の方に許可をいただいて。ウチのメインの応援曲になったんです」
青春の蹉跌であったはずのシダックスの2年間を、なぜ相馬はここまで愛するのか。
「(シダックスで)一気に自信がなくなっちゃった」
相馬は1979年10月16日、千葉県流山市で産声を上げた。市船橋では投手として3年夏にメンバー入りし、甲子園8強。卒業後は大体大に進学した。
「とにかく進路に関しては無知で、大学に行って初めて3学年上に上原浩治さんがいたのを知ったぐらいだったんです」
最上級生で才能は開花する。01年春の阪神大学野球リーグ戦では最優秀選手賞に輝いた。ここで達成した64回2/3の連続無失点のリーグ記録は、今も破られていない。
社会人チームへの練習参加に行く中で、相馬はシダックスに憧れた。真っ赤なユニホームとパワフルなキューバ人選手に心を奪われた。第1志望のチームに入社が決まった。
「本当に衝撃的なぐらい凄くいいチームだったんです。まあ、緩い(笑)。でもみんな自立していて、自己責任が問われるチーム。移籍してきた人が多かったのと、善さん(田中善則=現・昭和第一学園監督)が若い子にやりやすい環境を作っていたのが大きかったですよね」
しかし最速145キロの直球とフォークが武器の阪神大学リーグ最強右腕は入社後、いきなりやらかしてしまう。02年春の東京スポニチ大会。金属から木製へバットが変わる初の公式戦だった。初戦のJR東日本東北戦に救援すると同点の9回。まさかの暴投で敗戦――。
「大学から自分を過大評価して入ってきたら、初めにつまずいちゃって。大学では先発だったんですが、抑えを任されて、調子を崩してしまったんです。あそこでちゃんと抑えていたら、変わっていたかもしれない。一気に自信がなくなっちゃった試合でしたね」
「茶髪もヒゲもいなくなった」
この年、チームは都市対抗も日本選手権も出場を逃し、廃部の危機に陥った。その秋、監督に就任したのが野村だった。
チームは血の入れ替えを断行。新人、移籍を含めて15人という異例の補強をする中、1年目を終えたばかりの相馬は早くもピンチに見舞われた。