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“プロレス業界初の死亡事故”から25年…キューティー鈴木が明かす、盟友が亡くなった日「麻里ちゃんは起きてくると思っていた」
text by
伊藤雅奈子Kanako Ito
photograph byTakuya Sugiyama
posted2022/05/19 17:02
話題を呼んだ尾崎魔弓との写真集の裏側や、故・プラム麻里子さんへの思いを明かしたキューティー鈴木
――今振り返って、JWPはどういう団体でしたか。
キューティー あのときはもう一度団体を続けていいのかわからないまま、JWPの旗揚げを迎えるような感じだったので、不安のほうが大きかった。すごく人数が少なかったんですけど、旗揚げを終えて、やっぱりプロレスを続けてよかったって思えたし、もっとやらなくちゃいけないっていう責任感も出てきた。ジャパンのときは、私はお客さんを呼ぶ選手であって、プロレスで魅せるのは上の人たちだろうっていう頭でやってたけど、JWPになってからは、人を呼ぶのはもちろん、試合でも魅せなきゃいけないなっていうふうに、人数が少ないぶん思えるようになってた。
初の死亡事故から25年…故・プラム麻里子さんへの思い
――JWPを振り返るうえで欠かせないのはプラムさん。97年8月に起こったプロレス業界初の事故死から、今年はちょうど四半世紀(25年)です。
キューティー なんで亡くなっちゃったのか、よくわかんなかったですね、当時は。麻里ちゃんがリングのなかで倒れて、起き上がってこなくて、そのままみんなで病院に行くと、手術がはじまった。手術が終わって病室に戻ってきたときも、起きるんじゃないかと思っていたので、みんなでこちょこちょしたりして。ICU(集中治療室)じゃなくて、一般病棟だったから、起きてくるんじゃないかと思ったんですね。ICUだったら、「もしかして麻里ちゃん……」って思ったけど、普通の病室だったので、時間が経ったら目が覚めるもんだろうと思ってた。次の日に試合が入ってたので、新幹線で移動しなきゃいけない。移動中に連絡が入ったんです、「亡くなった」と。
――理解できましたか?
キューティー 誰かがすすり泣く声が聞こえたんです。で、「亡くなっちゃった、麻里ちゃん」って聞かされた。倒れる日の広島の試合会場まで、新幹線で麻里ちゃんと移動してたんですね。いつもと変わらず普通にしゃべって、お弁当を食べて。すべてが普通だったので、死んじゃったという実感が湧かない。
――それでも大会スケジュールが埋まっている。
キューティー 最後の試合で闘った尾崎は元気がないし、もちろんプロだから試合はしっかりやるんだけど、話すことは麻里ちゃんのことだし、気持ちの整理がついてないから、涙が出てくる。私のなかではね、いまだに若くてかわいいころの麻里ちゃん、29歳のまんまで止まってる。手相が好きだったんですよ。よく見てもらってて、「長生きするよ」なんて言われていたのに。