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「あのキタサンブラックはディープインパクトでも差せないよ」 天皇賞・春で激突したライバル・サトノダイヤモンド陣営が“敗北を認めた日”
text by
石田敏徳Toshinori Ishida
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/04/28 11:01
2017年の天皇賞・春をレコードで制し、ライバル・サトノダイヤモンドに勝利したキタサンブラックと武豊
“厳しい闘いになる”という予感があった
迎える天皇賞では2kgの恩恵がなくなるうえ、距離も初体験の3200m。ビッグマッチと囃し立てる周囲とは裏腹に、“厳しい戦いになる”という思いのほうが強かった。ただ、簡単に引き下がるつもりもなかった。そもそも、挑む山は険しければ険しいほど、得られる収穫も大きくなるというものだ。京都開催時、調教コースの開場時刻は朝の5時で、スタッフはその2時間ほど前から調教の準備を始める。朝の3時頃、厩舎にやってきた辻田義幸厩務員はキタサンブラックの馬房を覗き、“ああ、元気そうやな”と安心してから、もう1頭の担当馬エスポワールパレスの調教の準備作業に取り掛かった。
そこへ清水もやってきて馬と対面。彼はまず、馬の目を見るように心がけている。
「いつもそうですが、あの日も“目力があるな”と感じました」
普段より少し慌ただしい1日の始まりに、清水は厩舎の応接間に祀ってある馬頭観音の祭壇にお線香とろうそくを立て、人馬の無事を祈った。それは厩舎開業以来、ずっと続けている彼の儀式なのだ。
装鞍所のサトノダイヤモンドは気負っていた
調教が終わり、支度も整い、競馬場に向けて出発したのは8時50分頃。そのとき、4時間ほど前につけたカイバはけっこうな量が残っていた。
(やっぱり、今日が競馬だって分かっているんやな)
辻田はそう思った。
落ち着き払っていた阪神大賞典の当時に比べ、装鞍所のサトノダイヤモンドは少し気負っているように池江には思えた。パドックを周回する頃にはだいぶ冷静さを取り戻したものの、本馬場入場の際には再びテンションが上昇。休み明けのレースではイレ込みが激しく、2戦目では大人しくなるこれまでとはなぜか逆のパターンだった。
池江にはもうひとつ、気掛かりなことがあった。当日に何度か芝コースを歩いたとき、馬場がかなり固く感じられたのだ。鋭い末脚を武器とするサトノダイヤモンドにとって“速い時計が出やすいコンディション”は一見、歓迎材料とも思えるけれど、そう単純なものではない。地面に脚を叩きつけるような走法の馬は、初めて固い馬場を走るとき、戸惑ってしまうことがあるという。
とはいえ枠順も含め、その日、そのときに与えられた条件のもとで勝利を競い合うのが競馬である。ここまで来たらもう、できることは“祈る”くらいしかない。返し馬を見届けた彼は調教師席の控え室に入った。レースは室内のモニターテレビで見る。その前にアイスコーヒーとおしぼりを頼むのは、真冬のレースでも変わらない彼のルーティンだ。
喉を潤し、清めた手で馬頭観音のお守りを握り、人馬の無事を祈る。その瞬間、彼の脳裏には走馬灯のように様々な記憶――競馬が大好きだった祖母と祖父、少年時代に飼っていたペット、事故で儚い命を落としてしまった馬たち――が駆け巡る。
(どうかサトノダイヤモンドに力を貸してください)
そのすべてに祈りを捧げてから、彼はモニター画面を見つめて発走の瞬間を待った。