- #1
- #2
Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
「やめさせたいんなら、殺してみろ!」大阪桐蔭“最低の学年”と呼ばれたヤンチャ軍団はなぜ甲子園に行けたのか…OB西岡剛の証言
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKYODO
posted2022/03/23 17:00
2002年夏甲子園に出場した大阪桐蔭時代の西岡剛。初戦の東邦戦に敗れたが、主将・4番として2安打を記録した
最後の夏。西岡たちは大阪を制し、甲子園切符をつかんだ。1つ上の中村剛也(西武)、岩田稔(阪神)を擁した世代が最強と言われながら敗れたのに、西谷から「最低だ」と言われたヤンチャ軍団が勝った。
「根性論で結果は出ません。ただ、やんちゃな集団が気合いを入れていっちょやったろかとなった時は、勝負どころでとてつもない破壊力を生むことがあるんです」
西谷は前年の部員不祥事の責任を取り、その年はコーチに降りていた。デコボコの自分たちを押さえつけて平らにならすのではなく、凹凸そのままに組み合ってくれた熱血漢へ、11年ぶりの甲子園は彼らなりの恩返しだったのかもしれない。
別れの卒業式。すでにロッテへの入団が決まり、関東での生活をスタートしていた西岡は髪を伸ばし茶色に染めて登校した。
「学校に行くのはもう卒業式の1日だけだし、まあいいかと。そしたら西谷さんに捕まって『坊主にして卒業式に出るか、式に出ず今すぐ帰るか、どっちかにしろ』と」
じゃあ帰ります、と西岡が出て行こうとすると、首根っこを捕まえられ、髪に黒彩をふりかけられ、式の列に並ばされた。苦くて酸っぱい青春のラストシーンである。
そこから数年、母校には寄りつかなかったが、今になってやけに心に染みる。
「結局、継続することが一番大変なんです。僕はそれが苦手だった。50mダッシュ10本と決めても、だるい日、体調の良くない日もあるんです。でも100%じゃなくてもいいから10本走る。そうすると案外、最後は全力で走れていたりする。今はそうやって習慣にすることができています」
今ならわかる。なぜ、あの人が赤ペンで同じ言葉を書き続けたのか。なぜ、自分に坂道を走らせたのか。
「そういえば昔、オカンにも言われたなあ。気づいた時には遅いんやでって」
(後編へつづく)
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。